アーカイブスの『河川書誌考』〔7〕 佐久間ダム建設の軌跡
・1.電源開発・発足の背景・
昭和20年8月日中、太平洋戦争に破れた我が国は、食糧を含めあらゆる物資
が不足し、8000万人は飢餓状態にあった。食糧増産と経済復興が最大の課題で
あり、その原動力の一つが電力エネルギーの確保にあった。その確保に、東京
電力・等九電力株式会社が再編され、さらに昭和27年7月「電源開発促進法」
「電源開発株式会社法」の制定に基づき、同年9月16日、電源開発・が設立さ
れた。
その電源開発・の目的は、
・大規模または実施困難な電源開発を引き受ける。
・国土の総合的な開発、利用、保全との関連において計画、立案する。
・地域的な電力需要を調整するなどのため必要な電源の開発を速やかに行い、
電力の安定供給に貢献する、ことであった。
初代総裁高碕達之助、副総裁進藤武左エ門が就任した。
高碕総裁の就任にあたっては、吉田茂首相の意を受けて白州次郎が高碕の承
諾をとって決まったという。高碕総裁は初訓辞を次のように行った。
【私の考えていることは8000万人もいる日本人のなかで、この電発に集ま
って、同じ目的で、仕事をする事は何かの縁であると思います。総裁とか
、副総裁とかその他色々な役職がありますが。仕事の上では共同責任で皆
んなボートを漕ぐのと同じです。ボートに乗っている人々は共同責任なの
です。日本は国の建て直しに当たっては資源は殆どありません。ただ、さ
いわいに持っているのは多くの優秀な人材と雨量です。日本経済の自立の
為には水力電気利用を大いに考えなくてはなりません。】(水野清著『・
電源開発物語・』 (時評社・平成17年) )
電源開発・の発足により、糖平ダム(音更川)、御母衣ダム(庄川)、佐久
間ダム(天竜川)等の建設がスタートした。
・2.佐久間ダムの建設・
天竜川は、その源を長野県の諏訪湖に発し、その流れは伊那盆地を潤し、飯
田市を南下し、天竜峡に入り、さらに静岡、愛知県の県境を流れ、佐久間付近
で静岡県に入り、峡谷を抜け、二俣あたりで遠州平野に出て、遠州灘(太平洋
)に注ぐ、流域面積5094・、幹線流路延長2130┥の一級河川である。
昭和31年10月、佐久間ダムは天竜川左岸の静岡県磐田郡佐久間町大字佐久間
、右岸愛知県北設楽郡豊根村大字真立の地点に完成した。長野県天竜川から静
岡県佐久間町の落差 138mを利用して最大出力35万KWを発電し、50ヘルツと60
ヘルツの両用の発電機により、東京・名古屋方面に送電するものである。上流
の平岡ダムに至る約33┥に及ぶ人造湖が出現した。貯水池面積7.15・は諏訪湖
の5倍強に及ぶ。発電の他、昭和43年に完成した豊川用水に佐久間ダムから宇
蓮川に導水し、取水の安定が図られている。
ダムの諸元は、堤高 155.5m、堤頂長 293.5m、総貯水容量3億 2,684万・
、発電最大出力35万KW、型式は直線重力式コンクリートダムで、施工者はダム
本体が・間組、発電所建設が・熊谷組で、工費 385億円を要した。
補償関係は静岡、愛知、長野3県にわたり、移転世帯 296戸(水没地 248戸
、工事関係48戸)、水没面積447.8ha に及び、筏業者 229人、木材業者80人、
漁業者1814人などが補償を受けた。
佐久間ダムの建設経過について、次のように追ってみる。
昭和25年6月 朝鮮戦争勃発(〜28年休戦)
26年5月 電力会社の9電力社再編成
27年7月 「電力開発促進法」の施行
9月 電源開発・の発足
11月 高碕総裁ら米国技術導入のため渡米
1月 「佐久間補償推進本部」の設置
4月 佐久間ダム建設工事請負契約締結
・間組(ダム)、・熊谷組(発電所)の2社、米国アトキンソ
ン社と技術援助契約
「電源開発に伴う水没その他による損失補償要綱」の制定
5月 ダム建設機材購入のためハンク・オブ・アメリカより 700ドル
借款契約締結
12月 佐久間ダム建設所開設
国鉄飯田線付替工事着工
補償基準書の作成終わる
29年1月 被補償者との交渉始まる
3月 天竜川仮締切り完了(バイパストンネル2本)
5月 仮排水トンネル1号、2号竣工
8月 全断面掘削開始
台風5号来襲
9月 台風12号、14号来襲
11月 富山村( 141世帯)妥結
30年1月 コンクリート打設開始
11月 飯田線中部天竜〜大嵐間18┥付替工事完了
31年9月 佐久間町の発足(浦川町、佐久間村、山香村、城西村の合併)
10月 佐久間ダム(発電所)竣工式
このように、佐久間ダムは約3ケ年程の驚異的な工期で完成し、最大出力35
万KWの電力供給は、その後の日本経済発展と私達の生活の利便性を日々享受す
る牽引力となってくる。さらに、天竜川流域におけるダム開発によって、水力
発電だけでなく農業用水、水道用水、工業用水の利水面の機能を担ってくるよ
うになる。
・3.佐久間ダムの建設−戦後土木技術の原点・
佐久間ダム建設の評価について、大沢伸生・伊東孝著『・ダムをつくる・』
( 日本経済評論社・平成3年) )によれば、「戦後土木技術の原点」、「日本
の復興を世界に示した金字塔」とその技術力を讃え、次の点で当時日本一を誇
ったと述べている。
・ ダムの高さ 155.5mは、それまで日本一であった木曽川における丸山ダム
(昭和29年完成)の88.5mをはるかに越えた。現在の日本一は黒部ダムの 1
86mである。
・ 発電力の最大量35万KW(常時9万 7,000KW)は、東京電力の信濃川発電所
最大17万 7,000KWの約2倍にあたる。現在の日本一は新高瀬川発電所の 128
万KWである。
・ コンクリート打設 5,180・は世界記録を樹立した。
・ ダム工事は、大型の土木機械(ジャンボ・ブルドーザー、パワーシャベル
、ダンプトラック)をアメリカから中古品を輸入し、この機械を 駆使して
、10年かかるところを3ケ年で完成させた。
児童書の岩佐氏寿著『・佐久間ダム物語・』(東西文明社・昭和34年)には
、出水等の難関を乗り越えて、ダム工事の過程を実に丁寧に描いているが、こ
の書は、佐久間ダム建設の記録映画を撮った高村武次の指導を受けた。高村武
次(演出・脚本)の記録映画「佐久間ダム」(岩波映画・昭和29年〜34年)三
部作は、一般劇場で上映され第一部 300万人、第二部 250万人、第三部30万人
の観客動員を得た。アメリカの中古とはいえ、大型土木機械を駆使した、近代
工法による佐久間ダムの完成は、敗戦で自信喪失の日本人に大きな勇気を与え
た。
このダム工事記録については、電源開発・編・発行『・佐久間ダム・』(昭
和31年)、間組大天竜建設所編・発行『・佐久間ダム工事資料集−施工編・』
(昭和31年)、同『・佐久間ダム1953-6写真集・』(昭和31年)の書がある。
次に、日本経済新聞社の長谷部成美著『・佐久間ダム−その歴史的記録・』
(東洋書館・昭和31年/再刊、共益・・昭和52年)では、佐久間ダム建設に係
わった人々の喜怒哀楽が記された一般書である。ダム建設現場に張り付き、電
源開発・佐久間建設所長永田年ら、多くの関係者を取材しながら、電源開発・
の設立、アメリカのアトキンソン社からの技術導入、ダム工事入札、仮排水路
工事、第二次仮締切、高崎総裁の更迭、発電機の国際入札、コンクリート打設
、水没補償、ダム完成まで、事細かに記者の眼で追っている。
残念ながら、ダム工事の殉職者は 113名(ダム工事関係96名、鉄道付替工事
関係17名)とのぼり、国会問題になった。いまでは信じられないことだが、当
時ほとんど安全管理の思想はなく、佐久間ダムの工事現場では、保安帽をかぶ
る技術者、労務者は少なかった。とくにトビ職にいたってはこんなものをかぶ
る者は卑怯者だと呼ばれた。アトキンソン社員の指導により、ようやく保安帽
をかぶるようになり、全員保安帽をかぶる最初の工事現場は佐久間ダムだった
と、永田年は「・佐久間ダム・機械化施工の黎明・」(土木学会誌1975年 5月
号)のなかで記されている。当初から保安帽をかぶる習慣を身につけていたな
ら、もっと殉職者が減少していたかも知れない。
昭和32年10月28日天皇陛下は佐久間ダムを訪れ、「たふれたる人のいしぶみ
見てぞ思ふ たぐひまれなる そのいたつきを」と詠まれている。「いたつ
き」は「労き」と書き、心労、ほねおり、功労の意味である。
一方、日本ユネスコ国内委員会の委託による日本人文科學會編『・佐久間ダ
ム・』(東京大学出版会・昭和33年)は、近代技術の社会的影響に関する調査
報告書である。第・部〔電源開発と佐久間ダム(電力再編成と電源開発株式会
社の意義、佐久間ダム建設の意義とその問題点)〕、第・部〔佐久間ダム建設
における近代技術の影響(堰堤工事をめぐる問題、発電所建設をめぐる問題)
〕、第・部〔佐久間ダム建設の地域社会に及ぼした影響(佐久間村、富山村、
竜山村)〕から構成されている。
また、鈴木修次執筆『・日本一の佐久間ダム・』(天竜川水系総合開発協力
会・昭和30年)、飯田茂平著『・佐久間ダムの全貌・』(佐久間ダム観光案内
出版部・昭和42年)も発行された。佐久間ダムを背景とした小説、名古屋出身
の清水義範の『・ダムとカンナとシンシロシテン・』(文藝春秋・平成4年)
は、佐久間ダムの建設現場に物資を納入する父の姿を、少年の目を通して誇ら
しげに描いている。
・4.佐久間ダムの讃歌・
昭和31年10月15日佐久間ダムの竣工式が、天竜川の峡谷佐久間発電所の広場
で行われた。戦後最初の大規模プロジェクトであり、世紀の大工事の完成であ
った。服部勇次著『・ダムと水の歌 102曲集−ダム湖碑を訪ねて−・』(服部
勇次音楽研究所・昭和62年)のなかに、「ああ佐久間ダム」(服部勇次作詩・
作曲)という、ダム建設の讃歌がみられる。
1.はるか彼方の諏訪湖より
天竜川へ水流れる
飯田 平岡 佐久間へと
流れ増して 太平洋
ああ佐久間ダムは 電気のふるさとよ
2.全長二百五十キロ
流れを止めて発電所
五つのダムは音を立て
みなぎる力 明日を呼ぶ
ああ佐久間ダムは 電気のふるさとよ
3.長野に 静岡 愛知県
手を取りあって ダム完成
あばれ天竜 姿消し
巨大な電力 生み出した
ああ佐久間ダムは 電気のふるさとよ
後述するが、「電気のふるさとよ」と讃えられた佐久間ダムは、管理段階が
進むにつれて、天竜川流域に水害、堆砂、海岸侵食、水質汚濁などの問題を及
ぼしてくる。
・5.佐久間ダム完成後の変貌・
昭和31年10月佐久間ダム完成から、今日(平成18年)50年を迎えた。
佐久間ダム建設が、佐久間町地域に与える社会的な影響について論じた、町
村敬志編『・開発の時間 開発の空間 佐久間ダムと地域社会の半世紀・』(
東京大学出版会・平成18年)が出版された。この書は、前掲書『・佐久間ダム
−近代技術の社会的影響・』の学術調査を踏まえ、その後の半世紀にわたるポ
スト佐久間ダム開発を追っている。
昭和31年9月浦川町、佐久間村、山香村、城西村の合併により人口2万6000
人の佐久間町が誕生した。この合併には、ダムからの固定資産税収入の確保と
いう思惑があったという。電源地帯対策として交付される「水力発電施設周辺
地域交付金」は佐久間町の生活インフラ整備の重要な財源となり、地域経済を
潤した。組合立佐久間高校の開設(のちに県立高校に編入)による教育充実も
図られ、佐久間ダム建設犠牲者の慰霊祭、文化展、イベント事業が行われ、さ
らに佐久間ダム湖への観光バスや遊覧船が運営(昭和47年廃止)された。
このように佐久間町の経済は好調を続けていた。しかしながら、わが国の高
度経済成長の終焉を迎えると、林業の不況、久根鉱山の廃業、ダム交付金の減
少、人口の減少等により、昭和32年佐久間町の財政力指数 1.6から昭和52年に
は 0.4まで落ち込んでしまった。町当局の懸命な努力にもかかわらず、さらに
佐久間町の財政は悪化した。平成元年バブル経済の崩壊に伴い町の経済は安定
せず、老人人口の比率が増え、ついに平成17年7月佐久間町は浜松市に編入さ
れた。このように、この書は佐久間ダムの建設時からの地域変貌について、町
当局や地元民の聞き取り調査によって詳述しており興味がつきない。
戦後60年わが国が、山間地域の第一次産業の衰退過程を辿ったといえども、
結局、佐久間ダムの開発は、佐久間町地域の発展には繋がらなかったことを如
実に物語っているといえる。
・6.佐久間ダム完成後の被害・
ダムもまた老いる。ダム開発のマイナスの面を捉えた、森 薫樹・永井大介
著『・天竜川流域にみる日本のダム開発・』(三一書房・昭和61年)によれば
、ダム地域における過疎化減少が起こり、なおかつ、ダムによる水害、堆砂、
海岸侵食などの環境問題を起こしてきたと、泰阜ダム(昭和10年完成)、平岡
ダム(昭和27年完成)、佐久間ダム(昭和31年完成)の例を引きながら検証す
る。
水害が佐久間町を襲っている。「佐久間ダム完成後は洪水など水害がなくな
る」と言われていたが、昭和34年9月伊勢湾台風、36年6月梅雨前線の豪雨、
40年台風10号、43年台風10号等によって甚大な被害を及ぼした。また、天竜川
水系ダムの堆砂は進み、このことが水害の一要因となった。その堆砂率をみて
みると、泰阜ダム78.5%、平岡ダム84.8%、佐久間ダム34.8%、秋葉ダム35.4
%、水窪ダム25.9%、新豊根ダム1.7 %、船明ダム5.2 %、となっている(「
電力土木」('04・313))。現在、佐久間ダムの湖面では数カ所の地点で、土砂
を採取する浚渫船が稼働している。
このように半世紀を経て、天竜川からの土砂供給がほとんどなくなってしま
った。このため、天竜川河口遠州灘の中田島砂丘地帯では、海岸侵食と松枯れ
が急速に進み、漁場の悪化も招いている。中田島砂丘の海岸線は半世紀で 250
mも後退したという。平均年間5mにもなる。
・おわりに・
佐久間ダムの開発は、半世紀にかけて、電力エネルギー供給等によって、我
が国の経済発展に寄与してきたが、その反面、天竜川流域に様々な被害を及ぼ
してきた。これらの被害の対処について、国土交通省中部地方建設局は、平成
16年度から予算化し、新規事業として、利水専用の佐久間ダムに治水機能を新
たに備え、ダム上流から下流に排砂バイパス・トンネルを設置して、堆砂土砂
を流し、未着工であるが、養浜活用など総合土砂管理対策を推進することとな
っている。この対策事業は急がねばならない。
佐久間ダムのことには触れてないが、宇野木早苗著『・河川事業は海をどう
変えたか・』(生物研究社・平成17年)は、ダム建設等に起因する全国の海岸
侵食の惨状を捉え、海を含めた環境影響評価の必要性を説き、森と川と海と一
体となった発想と管理を行うことを強く訴えている。
(会員:水・河川・湖沼関係文献研究会)







