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アーカイブスの『河川書誌考』〔5〕  戦後の水害文学

・1.戦後60年の水害・

 

 水害によって人生が大きく変わることがある。1959年伊勢湾台風で両親も兄
弟も喪くしたある少年は叔父の家に引き取られたが、その家庭になじめず家出
、その後行方不明になったという。水害は常に人的、経済的に害を及ぼす。19
45年8月15日我が国は日中、太平洋戦争に敗れ、ようやく戦争が終わった。今
年(2005)、戦後60年を振り返ると、日本列島は梅雨前線や台風の豪雨で毎年
のように水害に見舞われてきた。
・戦後期の大規模水害−米軍の空襲と、戦争遂行のため森林乱伐による荒廃し
た国土に、大型台風カスリーン台風、アイオン台風、デラ台風が相次いで襲っ
た。(安藝皎一著『・水害の日本・』( 岩波新書・1952年)、大谷東平著『・
台風の話・』( 同・1955) ) ・都市水害の拡大−1960年池田内閣の「所得倍
増計画」を契機として、高度経済成長期に入り、水田が宅地化され人口と資産
が増加し、都市化が進んだ。集中豪雨が中小河川の氾濫をおこし、都市水害を
ひきおこした。(高橋裕著『・国土の変貌と水害・』( 岩波新書・1971) )
・異常気象の水害−1980年代以降地球温暖化の影響であろうか、ピイポイント
で降る集中豪雨がひんぱんに襲うようになった。1999年福岡豪雨博多駅の水害
、2000年東海豪雨が起こっている。とくに2004年は台風が10個も上陸、1時間

に50┝以上の豪雨が 470回(1996〜2003年年平均 271回)も記録し、水害、土
砂災害が多発した。このような傾向は、世界的に広がっており、逆に、深刻な
渇水も生じさせている。(森野美徳監修・日経コンストラクション編『・水害
の世紀−日本列島で何が起こっているのか・』( 日経BP社・2005) )

 

・2.戦後の水害史・

 

 前書『・水害の世紀・』によると、戦後60年の主なる水害は次のようになる
。なお、数字は死者・行方不明者である。

 

1945年9月  枕崎台風    (西日本  3,756名)
   10月  阿久根台風   (西日本   451名)
1947年9月  カスリーン台風 (関東以北 1,930名)
1948年9月  アイオン台風  (関東、奥羽 838名)
1949年6月  デラ台風    (九州    468名)
1950年8月  ジェーン台風  (関西    539名)
1951年10月  ルース台風   (瀬戸内   943名)
1953年6月  梅雨前線    (北九州  1,013名)
   7月  南紀豪雨  (奈良、和歌山 1,124名)
   8月  南山城の大雨  (近畿南   430名)
   9月  台風13号    (近畿・東海 478名)
1954年9月  洞爺丸台風   (北海道  1,761名)
1957年7月  諫早豪雨    (長崎    722名)
1958年9月  狩野川台風  (関東・伊豆 1,269名)
1959年9月  伊勢湾台風   (東海   5,098名)
1972年7月  梅雨前線      (全国  447名)

1976年9月  台風17号長良川決壊(香川・岐阜 171名)
1982年7月  長崎豪雨、台風10号 (長崎等 439名)
1999年6月  福岡豪雨(博多駅水害)   ( 1名)
2000年9月  東海豪雨          (12名)
2003年7月〜8月 梅雨前線、台風10号(全国 42名)
2004年6月〜10月 台風10個上陸  (全国  235名)

 

 水害における死者・行方不明者は、昭和9年9月室戸台風 3,036名であるが
、戦後60年では、・伊勢湾台風 5,098名、・枕崎台風 3,756名、・カスリーン
台風 1,930名、・洞爺丸台風 1,761名、・狩野川台風 1,269名となっている。

 

 

・3.戦後の水害文学・

 

 これらの水害に遭遇した時、人々はどのような行動をとるのであろうか。そ
のノンフィクション文学についていくつか追ってみたい。

 

・枕崎台風

 

 1945年9月17日〜18日にかけて、鹿児島県枕崎に上陸した台風は、大分県、
山口県、広島県などを襲った。死者・行方不明者 3,756名、負傷者 2,452名、
住家損壊8万9839戸、浸水家屋27万3888戸の大被害を及ぼした。8月6日原爆
投下で焼野原となった広島市、そして呉市に大被害を発生させた。
 柳田邦男著『・空白の天気図・』(新潮社・1975)は、この枕崎台風と原爆
投下の惨状を並行しながら捉えている。当時、広島管区気象台勤務の技術主任
北勲の行動を中心に、被爆を受けた台員たちの「観測精神」(欠測してはなら
ない)の奮闘振りには頭の下がる思いである。一方、京都帝国大学原爆災害綜
合研究調査班の優秀なる学者たちが、調査中大野陸軍病院において、枕崎台風
、山津波の犠牲になった悲劇も描いている。この書に「山津波は原爆で苦しみ
抜いた者も、それを治療しょうとした者も、後世のために研究資料を残そうと
した者も、全て呑みこんでしまったのだ。しかも、台風が至近距離を通過して
いるなどとは誰も知らなかったのだ」とある。
 広島県下の死者・行方不明者 2,012名のうち、呉市では 1,154名を占めた。
「昭和20年9月17日における呉市の水害について」の報告書に、その人為的な
誘因について、戦時中の山林の伐採、松根の採取、無秩序な宅地開発、情報途

絶下の災害(災害に対して備える心構えなど全くなかったこと)を挙げている

 

・カスリーン台風、アイオン台風

 

 1947年9月14日〜15日、カスリーン台風は、赤城山(標高1827m)など至る
ところで山津波、土石流をおこし、利根川、荒川を決壊させ、濁流が東京都内
に流入した。死者行方不明者 1,930名、負傷者 1,547名、住家損壊 9,298戸、
浸水家屋38万4743戸の被害を及ぼし、東京都内の復旧には1カ月も要した。
 高崎哲郎著『・洪水、天ニ漫ツ・』(講談社・1997)はあらゆる資料を駆使
し、カスリーン台風の惨状を描く。カスリーン台風は風は弱く、足の遅い雨台
風であった。総雨量は秩父 610.6┝、箱根 538┝、本庄 432.8┝、前橋 391.9
┝、足尾 386┝、日光 378.8┝、桐生 376.8┝、熊谷 341.3┝となった。この
大雨が、終戦直後の荒廃した国土を襲い、埼玉県大利根町の利根川、熊谷市久
下、足立郡田間宮村( 現・鴻巣市)の荒川の堤防がそれぞれ決壊した。江戸川
、中川の堤防も決壊、その惨状は地元の人々の水災メモから綴っている。東京
都を含めた埼玉、栃木両県の復興にはGHQ軍政部・ライアン司令官たちの協
力的な指導も描いている。またカスリーン台風は岩手県一関市に大被害を及ぼ
した。
 カスリーン台風から丁度1年後、1948年9月15日〜17日アイオン台風が北上
川の支流磐井川の堤防を決壊させ、またもや一関市を中心に、死者行方不明者

838名、負傷者 1,956名、家屋全壊 5,889戸、半壊1万2127戸、床上浸水4万
4867戸、床上浸水7万5168戸の大被害を及ぼした。
 カスリーン台風、アイオン台風による一関市水害を描いた高崎哲郎著『・沈
深、牛の如し・』(ダイヤモンド社・1995)、同著『・修羅の涙は土に降る・
』(自湧社・1998)の2書がある。これらの水害の生き地獄を読むには、耐え
がたいが、一関市の復興にかけたファーガソン中尉、及川舜一(一関土木事務
所長)、鈴木軍之進、ベントレー中尉、阿部時一(一関市長)、鍋島六郎(一
関消防団長)、蔵重一彦(盛岡測候所長)らの活躍には敬服せざるを得ない。

 

 

・洞爺丸台風

 

 1954年9月10日〜14日台風12号は宮崎県、大分県、熊本県など被害を及ぼし
144名の死者行方不明者を出した。さらに、その10日後、9月24日〜27日にか
けて5隻の青函連絡船が遭難し、洞爺丸( 3,898トン)の乗客乗務員 1,139名
が亡くなる大惨事がおこった。
 上前淳一郎著『・洞爺丸はなぜ沈んだか・』(文藝春秋・1980)は、次のよ
うに構成されているが、そのまま引用する。
【26日朝6時〜12時、鹿児島に上陸した台風15号は猛スピードで北上し、それ
に追いかけられるように洞爺丸は青森から函館へ向かった。12時〜14時30分、
函館桟橋の洞爺丸に様々な人生を背負った客たちが乗り込み始めた。14時30分
〜18時、台風が迫った。洞爺丸船長は出航見合せをきめる。がやがて天気は回
復のきざしを見せ再び出航準備に入った。18時〜20時、洞爺丸は出航したが、
港の内外は予想を上回る荒天だった。船長はやむなく投錨する。しかし風は強
まる一方だ。20時〜22時、洞爺丸は嵐に翻弄され始めた。船の内外は混乱の極
みに達しつつある。そして、エンジンに故障が発生した。22時〜22時50分、つ
いにSOSが打たれた。パニック状態の乗客を乗せたまま洞爺丸は荒れ狂う波
にその巨体を沈め始める。22時50分〜24時、洞爺丸は沈んだ。波間に投げ出さ

れた人々は幸運を求めてあがいたが、自然の猛威の前に力つき敗れて去った。
夥しい犠牲者と様々なドラマを残して嵐は去った。一年後海難審判庁は事故の
原因を船長の過失と判定した。生存者は 116名であった。】

 

・伊勢湾台風

 

 1959年9月26日〜27日伊勢湾台風は、東海地方に時間雨量40┝〜70┝の豪雨
をもたらし、河川の増水に、高潮も重なり、海岸、河口付近の堤防が決壊した
。死者行方不明者 5,098名、負傷者3万8921名、全壊家屋4万 838戸、半壊家
屋11万3052戸、床上浸水15万7858戸、床下浸水20万5753戸と戦後の未曾有の大
被害となった。中京病院の医師三輪和雄著『・海吠える・』(文藝春秋・1982
)は、伊勢湾台風が襲った日、同僚の医師が遭遇した台風の恐ろしさをも描く

【誰もが生死の水際をさまよい、親や子の手を放し、兄や妹を巨大なラワン材
の下敷きにしたのだ。いま、ここにいる自分だけが生き残っていた。人々は水
にのまれていく肉親にも、人工呼吸どころか、なにひとつしてやれなかったが
、いま遠い目で眺めている人は、山下夫婦と同じように、有無をいわさず、肉
親と生と死に引き裂かれてきたのかも知れぬ。山下の必死の努力にもかかわら
ず、真弓は次第に冷たくなっていた。】
 著者はそのあとがきに、「避難命令を適切に出せば」と憤り、そしてこの災
害原因は「都市化によって干拓地(低地)に工場ができ、人が住みついたこと
にある」と述べている。

 なお、子どもたちがこの台風の体験を綴った神吉晴夫編『・台風の子・』(
光文社・1960)、児童書、神山征二郎著『・伊勢湾台風・』(学習研究社・19
88)の書がある。

 

・長崎豪雨

 

 1982年7月23日、集中豪雨が長崎県を襲う。23日19時から20時の1時間の雨
量 187┝、19時から22時の3時間の雨量 315┝により、その夜の長崎市内は、
先づ、低地で浸水が始まり、浜町一帯の冠水、がけ崩れが相次ぎ、中島川の氾
濫で一帯は湖、八郎川の氾濫、芒塚の土石流発生、奥山地区の崩壊発生、川平
の土石流発生と被害が進んだ。死者・行方不明者 299名、全・半壊家屋 538戸
、商工の被害約 963億円、土木の被害約 842億円を生じさせた。
 河口栄二著『・濁流−雨に消えた 299人−・』(講談社・1985)は、長崎県
、長崎市、気象台、消防局、警察署等の当局が、この水害に対しどの様に対応
したか、また、市民の行動に関し克明に記録したものである。
 現代は車社会である。文学ではないが、水害で突発的にドライバーが引きお
こした事例を調査研究し、その対処方法を著した高橋和雄・高橋裕著『・クル
マ社会と水害−長崎豪雨は訴える・』(九州大学出版会・1987)があり、さら
に、長崎水害における国道34号線復旧奮戦を捉えた針貝武紀著『・精霊船が駆
け抜けた!・』(長崎文献社・2002年)の書も発行された。

 

・2004年の水害

 

 2004年は、続けざまに、台風6号(6月18日〜22日)、新潟・福島豪雨(7
月12日〜14日)、福井豪雨(7月17日〜18日)、台風10号、11号(7月29日〜
8月6日)、台風15号(8月17日〜20日)、台風16号(8月27日〜31日)、台
風18号(9月4日〜8日)、台風21号(9月25日〜30日)、台風22号(10月7
日〜9日)、台風23号(10月18日〜22日)、と日本列島を襲い、多大な被害を
及ぼした。
 この被害のうち、神戸新聞但馬総局・編『・円山川決壊−台風23号記録と検
証・』(神戸新聞総合出版センター・2005)は、10月20日〜21日の豊岡平野部
における水害を追っている。円山川と出石川の決壊は、1959年9月伊勢湾台風
の時の水位を上回り、また増水も早く、豊岡市街地などを水没させ、死者9名
建物浸水家屋 8,943戸に及んだ。
【10月20日14:30 山間で強い雨、15:10 出石町全域避難勧告、18:05 豊岡避難
勧告、20:10 出石全域停電、21:30 豊岡の全域で内水氾濫、23:15 円山川、出
石川の決壊、10月21日朝6時夜が明け救助の本格化】までを記録している。さ
らに避難勧告のタイミング、民間の対応、兵庫県の防災システムなどを検証す
る。被災者にとっては、ボランティアの活躍が大いに励ましと力を与えてくれ

たとあり、感謝している。
 以上、水害におけるノンフィクション文学について概観してきた。
 70%を急峻な山地で占める日本列島は、台風や集中豪雨によって、水害や土
砂災害が至るところで、引きおこしやすい地形となっている。さらに、戦後無
秩序な都市化によって保水力が失われ、水害が増大した。
このような水害に対処するには、洪水にかかわる的確な情報が一般の人々に伝
達されることが大切である。行政側はカラ振りであってもよいから、早めの避
難勧告を出すべきであろう。高齢化社会が進んでいることから、水害から身を
守るために、一人一人が「自助」に努めることは勿論大切だが、地域住民の援
け合いによる「共助」、行政が主体となる「公助」、この三つの役割を欠かす
ことができない時代となった。

 

               (会員:水・河川・湖沼関係文献研究会)



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