(21)土石流の流れの速さは秒速10mだ
水のことなどあれこれ(21)
−土石流の流れの速さは秒速10mだ−
平成15年7月19日未明福岡県太宰府市周辺の梅雨前線による豪雨は一時間90mmに達し、宝満山、四王寺山は至るところで、土石流が発生し、スギなどが抉られた。また、この山を源とする御笠川、宇美川では洪水氾濫がおこり、下流域のJR博多駅付近は浸水し、地下街で一人が亡くなった。
平成21年7月21日、250mm超の記録的な豪雨に見舞われた山口県防府市真尾では、大規模な土砂崩れ、土石流が発生し、特別養護老人ホーム「ライフケア高砂」を襲った。尊い命が失われた。さらに7月24日活発な梅雨前線と低気圧の影響で、九州北部に一時間に100mmを超す猛烈な豪雨に見舞われ、福岡市周辺の低地でも浸水に遭った。平成15年7月に次ぐ水害である。この豪雨によって、至るところで土砂災害も発生した。特に大野城市乙金の九州自動車道路では、道路脇の斜面が幅約25mにわたって崩れ、約3000?の土砂が上下線に流れ込み車一台が巻き込まれ、2人が亡くなった。もちろん水害も恐ろしいが、さらに豪雨がもたらす鉄砲水、土石流も怖い。土石流の流れの速さは秒速10m〜100mと言われ、それに大量の土砂が一瞬のうちに流れ、防ぐ余地はほとんどなく、この災害から逃れるのは不可能といえる。

池谷浩著『土石流災害』(岩波新書・1999)には、「土石流という言葉は、土砂が通常水で運搬される量よりも異常に多く流出した場合に用いられている。」とある。土石流は山津波、蛇ぬけ、山しおなどと呼ばれ、むかしから、山から何かが流れ出し被害を与えるものと恐れられていた。この書は、「1998年土石流は全国31の府県、312件発生。死者9名、家屋全半壊26棟。国土開発の進展の結果、土石流発生の危険性が高い地域に人家や建物が次々に建設されており、今後も土石流による被害の発生が予想される。」と分析する。

さらに、西本晴男著『『土石流』のはなし』(全国治水砂防協会・2008)によれば、土石流発生のパターンについて、次ぎのように論じる。
@ 豪雨などにより供給された多量の水により、渓流に堆積していた土砂が一気に流動化し土石流になる場合
A 大雨、雪解けによって山腹斜面に発生した表層崩壊が、渓流に入り一気に流動化し土石流になる場合
B 山崩れなどの崩壊土砂が谷を堰き止め、天然ダムを形成し、これが決壊する時に土石流となる場合
C 大雨、雪解けや地震によって発生した比較的規模の大きな崩壊や地すべり土塊がそのまま流動化し土石流になる場合
D 火山噴火で新しく山腹斜面に堆積した火山灰が、降雨時に元地盤の土砂とともに侵食されて土石流となる場合(泥流とも呼ばれる)
平成13年施行「土砂災害警戒区域等における土砂災害防止対策の推進に関する法律」(「土砂災害防止法」という。)においては、「土石流は山腹が崩壊して生じた土石等又は渓流の土石等が水と一体となって流下する自然現象をいう」と、定義する。その土石流の被害は、土砂災害警戒区域等に都市開発によって人が住みつき、そこに自然現象としての土石流が生じたときに、人的、物的な被害がおこる。その被害発生は都市開発という社会現象と土石流発生という自然現象の接点で交わることとなる。前述の高速道路の土石流災害は都市化としての社会現象が土石流という自然現象が重なっておきた災害である。
土砂災害防止法に基づく都道府県知事による土砂災害警戒区域等の指定状況をみてみると、平成20年末現在、土砂災害警戒区域が約6万箇所、土砂災害特別区域が約2万6千箇所と、現在は握されている土砂災害危険箇所約52万箇所にのぼるという。土砂災害からの減災には、砂防堰堤などの砂防施設の設置であるが、既に施設が整備されているのは20%に過ぎない。
このようにみてくると、一瞬のうちにおこる土砂災害は、その発生場所と発生時刻を正確に予測することは現在の技術ではなかなか困難だ。この書では「土砂災害から少なくとも人命を守るために、行政と住民が土砂災害の特徴と各々の役割分担について共通認識を持ち、双方協議して土砂対策に対する警戒避難体制を構築するとともに、その土地の危険性に応じた建築物の強化等の対策が講じられ必要がある。」と指摘する。ハード面とソフト面からの土砂災害対策が重要だ。
災害をふせぐ方法の一つとして、洪水ハザードマップの中にも、土砂災害危険地域も掲載し、行政側は降雨を分析し、避難勧告するランクをひとつあげて早め早めに避難勧告を発することだ。なぜなら、地球温暖化の影響であろうか、最近の雨の降り方は異常であり、時間雨量100mmを超え、災害はどこでも日常的に起こりうる状況にあるからだ。そして早めに住民を避難場所に誘導することだ。被害を大きくしている要因は情報が後手後手になっていることもある。仮に避難勧告、避難場所の誘導が空振りであっても誰も非難する人はいないと思われるが。その空振りは避難訓練だと考えれば良い。このことは即ち学習行動となり、実際に災害が起こったときは大いに役に立ち、必ず人命を救うことになるからだ。
(H21.7.28) 古賀河川図書館 古賀邦雄
(22)「水五則」に学ぶ
水のことなどあれこれ(22)
−「水五則」に学ぶ−

平成21年7月29日、分かり易い仏教の本や講演で人気のあった臨済宗龍源寺の松原泰道氏が逝去した。101歳であった。65歳のときに著した『般若心教入門』がベストセーラーとなり、著書は130冊以上に及ぶ。水に係わる書もある。それは安土桃山時代の武将・黒田官兵衛(孝高)の「水五則」による人生哲学、人間の在りかた、生き方を説いた『人徳の研究』(大和出版・平成4年)であり、その「水の五則」の内容は次ぎのとおりである。
@ みずから活動して、他を動かしむるは、水なり(率先垂範の教え)
A 常におのれの進路を求めてやまざるは、水なり(不断の向上心の教え)
B 障害にあって、激しくその勢力を百倍し得るは、水なり(困難を乗越えると人は大きく成長する。)
C みずから潔うして他の汚濁を洗い、清濁あわせいるる量あるは、水なり(人を管理するには、まず自分自身が常に水のように公平で、かつ清潔な心)
D 洋々として大海をみたし、発しては霧となり、雨雪と変じ霰と化す。凍っては玲瓏たる鏡となり、しかも、その性を失わざるは、水なり(変化に対応し、変化に流されず)
黒田孝高(1545〜1604)は、「水五則」の原作者として考えられているが、松原泰道氏は「おそらく孝高(よしたか)が生まれる前から、「水五則」は中国なり日本で、老子の道教の思想を持つだれかが執筆作成したのだと思います。したがって、孝高は何かの縁で「水五則」の成文を知り、水の本性を知り、水の本性に自己の生き方の示唆を受けたのではないでしょうか。このことはもとより私の独断ですが、彼は自分の道号を「如水」と選び、如水を"心の澪標(みおつくし)"として、自分の残りの生涯を"水のように"に生きたのではないでしょうか。」と、推測する。澪標は水上を航行する船に、通りやすい水路や水脉を知らせるために立てた標識。澪標の語源は「水脈の串」のいみで、古くから「身を尽くし」と音訳して、「自分の身を何かに捧げ尽くす」意味に用いられる。
孝高は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の怒涛のような時代を生き抜き、福岡藩52万石の基礎を築いた。苦境に立たされたとき、「水五則」の教えは、座右の戒めとして孝高の心を貫いていたのではなかろうか。
孝高死後既に400年が過ぎた現代も生きづらい世の中が続いている。職を失い、ホームレースが増大し、しかも自殺者が年間3万人をこえる。逆境に耐え、耐えるだけでなく精進し、それを乗り越える力を、この書は「水の五則」から示唆してくれる。
(H21.8.3) 古賀河川図書館 古賀邦雄
(23)雨水ネットワーク
水ことなどあれこれ(23)
−雨水ネットワーク−

平成21年8月6日〜7日にかけて、福岡大学において「雨水ネットワーク会議全国大会in福岡」が開催された。その開催主旨について、実行委員の九州大島谷幸宏教授は次のように語る。「福岡市内の金印で有名な志賀島には、海の民が祭る志賀島神社がある。この神社では「あーら いい山 しげった山」と三度、山を称える山ほめ祭が行われている。雨は天から降って、山野、田畑を潤し、川を通って海にいたる。天も雨も海もいずれも大和言葉ではアマと発音する。昔の人は、天−雨−海の水循環を言葉として表現していたのである。」。このような先人の知恵・健全な水循環のさらなる発展のために、日本全国から雨水利用の実施ついて報告してもらい、雨水ネットワークの構築を図る大会であった。
その「大会資料集」が発行されている。そのなかから、雨水ネットワーク構築のためのキーポイントとなる、いくつかの言葉を追ってみたい。
1.挨拶・基調講演
(1) 福岡大学では、2年前から雨水を貯留する施設の実証実験を、仮設人工芝サッカー場において、実施している。(福岡大学副学長 大和竹史)・・・実際に8月7日福大サッカー部は全国優勝。雨水貯留する施設サッカー場が実証された。
(2) 今日では、渇水や浸水対策だけでなく、水環境の改善や都市部でのヒートアイランド対策が急務であり、健全な水循環系の再構築を図っていくことが重要な課題であります。
(福岡市長 吉田宏)
(3) 地表水、地下水、雨水、再生水など循環している水を一体的に捉え、合理的な利用・制御により最適な水資源配分を図ることが総合的な水資源のマネジメントでは必要です。その中で雨水の利用は、平常時の利用を促進することでダムの貯留量など水源を温存し、水利用の安全度を向上させることが期待されます。また、温暖化の緩和策としての意義もあり、「水を大切に使う社会を構築する」ための大切な取組みの一つと考えています。(国土交通省水資源局水資源部長 谷本光司)
(4) 雨を「流す」のではなく、「溜める」ということだった。すなわち、雨を一挙に下水に流すから下水が逆流する。ならば雨をタンクに溜めたり、地下に浸透させたりして、雨が下水道に流出するスピードをコントロールすればいい。そこで、東京全体で雨を溜めたとしたらどれぐらいなるのか計算した。驚いた。なんと、年間水消費量約20億トンを上回る、約25億トンもの雨が溜まるではないか。東京では水が足りないと遠方にダムを求めてきたが、足元に膨大な水資源を捨ててきたのだ。そのとき、もう一つの処方箋が見えてきた。それが、「流せば洪水、溜めれば資源」だ。(ドクトル雨水・東邦大学薬学部客員教授 村瀬誠)
(5) 既存個別各種水関係法(32法以上)を連携させ、日本の「統合的水資源管理」が行える基本法を整備する。水の縦割り行政を連結した行政に改善発展。そのため欠落している個別水法案を整備する勧告を行う。(京都大学名誉教授 水制度改革国民会議理事長 松井三郎)
2.各地域からの雨水対策の報告
(1)「市民あま水条例」−市川市 宅地における雨水の地下への浸透及び有効利用の推進に関する条例−
この条例は水害に悩む市川市は、新築・増改築の確認申請時に雨水排水計画の届出義務化を図り、雨水浸透施設の設置を普及させた。
(2)松山市の雨水利用の取組み
市有施設への雨水貯留施設設置、市民・事業者への補助制度や大規模建築物の新築に雨水貯留施設の設置を義務付ける条例を制定。松山市立小中学校に雨水タンクを設置している。
(3)熊本市における地下水保全
ビニールハウスに降った雨を地下に浸透させる施設の整備に対して、補助金を交付し、地下水涵養を促進している。そのほかに「雨水浸透枡」、「雨水貯留タンク」、「浄化槽の改善」に補助金をだしている。
(4)サントリーの「水といきる」企業理念
お客さまに水の恵みを届けることにしている。雨水の活用について、九州熊本工場では、倉庫に降った雨を雨水貯留槽に溜め、このうち一部は防火水槽、植栽の散水、残りは雨水濾過器を通して、水回収タンクに貯水し、製品や容器洗浄などに用いる。また、雨水の地下涵養を図るために、全国9箇所森林に天然水の森作り、水源の森作りを行っている。
(5)福岡市立野多目小学校の雨水教育
学校の花壇には、雨水タンクの水を利用するが、すぐ無くなり、子供達は「水は有限だ」と実感し、水の大切さが理解できた。また、5年生の理科学習で500匹の黒メダカを飼育。飼育する水を水道水から雨水に変えると、結果として、ミジンコの発生も早くなり、えさをほとんど必要とせず、水質を悪化させることもなく、メダカの致死率が低下した。
以上、雨水大会で報告された雨水利用の効用について、一部挙げてみた。もっともっと雨水を貯留し、浸透させ、活用したいものだ。雨水タンクが無ければ、バケツを軒先に置くだけでも雨水は、今日からでも直ぐに利用できる。
この大会は、次のような「雨水ネットワーク 九州宣言」が行われ、平成22年開催地が松山市に決定し、終了した。
1. 雨水に関する歴史・文化を踏まえ、美しい景観や緑、食、健全な生態系をもたらす恵みとして、雨水に感謝する思想を確立・普及する。
2. 雨水に関する情報・知恵を収集し、それらを蓄積する場所を確保し、一般市民、子供たちおよび関係団体に広く発信する。
3. 雨水を貯留、浸透する活動は小さな積み重ねが重要であることを共有し、市民、行政、学界、企業がパ−トナ−シップに基づき、それぞれの立場で、できる範囲で着実に雨水に関する活動を実施する。
4. 雨水を貯留・浸透・利用する技術およびそれらのシステム化、産業化について研究開発する。
5. 雨水を貯留・浸透・利用を促進するための制度や社会システムを研究・構築する。
6. 雨水の貯留・浸透の効果が把握できる試験サイトを確保し、実証する。
(H21.8.9) 古賀河川図書館 古賀邦雄
(24)線香水車
水のことなどあれこれ(24)
−線香水車―

古賀河川図書館が知られるようになったせいか、最近寄贈図書が増えてきて、大変感謝しています。先日、水車研究の第一人者の小坂克信先生から『地域の生活を支えた水車の技術−野川を中心−』(玉川上水と分水の会・平成21年)が、贈られてきました。東京都は、明冶30年には、水車が710台稼動していたと言われ、現在はほとんど稼動していない。この書は、三鷹市大沢にある峰岸水車(昭和43年稼動停止)を中心に、どのように穀物を精白・製粉してきたのか、木や石で製作した伝統的な杵や搗き臼(穀物の精白)、挽き臼(製粉)といった器械をどのように動かしたのか、また、峯岸水車には、ベルトとプーリーなどが使用されており、それらを調査されている。さらに、峰岸家にのこる経営資料に基づき、水車で調整・加工した米や大麦・小麦の量を明らかにして水車が地域の食生活に果した役割を追求する。そして、野川流域の水車について悉皆調査を行っている。
我々が生活していくうえで、欠かせないものは水と食糧とエネルギーである。今ではエネルギーは電力エネルギーに変わってしまったが、かつて水車は動力エネルギーとして、殆んどを担っていた。水車の用途をみてみると、揚水水車、精米水車、和紙製造水車、製材水車、エボナイト粉製造水車、トロンミル水車、ガラ紡績水車、螺旋水車、そして線香水車などにみられる。
筑後川には、山田井堰から堀川に引いた水を、水田に揚水する三連水車、二連水車が6月中旬から稼動し始めた。これらの水車は筑後平野の風物誌でもある。以前三連水車の稼動廃止の気運がおこったが、そのとき水車研究家の香月徳男さんの尽力で三連水車は守られ、山田井堰土地改良区の手でがっちり管理され、機関車を思わされるような水車の動きは、地域の人々の人気の的になっている。
また、筑後川と平行して流れ有明海に注ぐ、矢部川には線香水車が稼動している。その水車は、矢部川の上流の杉山に囲まれた横山川沿いの福岡県八女市上陽町上横山で、「馬場水車場」である。かつては、水車による製粉場は最盛期には40数軒もあったというが、いまでは線香水車を作っている「馬場水車場」の一軒となった。線香水車を守る馬場猛さんは、60歳の二代目。「先人がうけついだできた水車を守らねば」と、水車を平成20年に21年ぶりに再建した。ここで生産される線香水車は、周囲の山からの天然スギを原料とする。
一般的に線香水車の作り方は、平岡昭利編『水車と風土』(古今書院・平成13年)
に、次のとおり記されている。杉の葉を採り、その杉葉を3〜4月かけて自然乾燥。裁断、大きな枝と小枝を除き、天日乾燥した後、葉をこまかくする。次に舟形の長臼に杉葉を入れて杵で水車の動力で搗く。一昼夜つきあげた粉を振るいかけて、カスなどを取り除く。こね桶という練り機へ杉粉、糊粉などを入れ、熱湯を加えて充分に練る。練りあがった原料をドウと呼ばれる押出機に入れ、圧力をかけてジョウロ状の穴からうどんのように押し出す。これを盆板にうける。盆板のものに、竹べらをつかって干板に移し替え、隙間なく並べる。干板に並べたものをカッターで製品寸法に切り合わせる。乾燥場に移し、7〜10日かけて自然乾燥させる。乾燥の済んだものを十分にチェックして、適量に結束する。最後にラベルを貼り、箱詰めにして完成品となる。
馬場水車場では、出来上がった杉の粉を久留米市内の線香原料問屋に出荷しているが、水車の再建費などの出費がかさみ、なかなか線香水車の経営は厳しい。そこで、「馬場水車場を応援する会」が発足した。応援する会の代表関内潔さん、事務局の高橋康太郎さんである。線香水車一個500円で販売し、馬場水車場の支援を行っている。連絡先同事務局は0943−24−5545である。このことは、西日本新聞平成21年2月27日に報じられていた。
(H21.8.28) 古賀河川図書館 古賀邦雄
(25)伊勢湾台風災害から50年
水のことなどあれこれ(25)
−伊勢湾台風災害から50年−
水害は人生を狂わす。いままで平和な暮らしの家庭さえ、瞬時に破壊してしまうからだ。
「母は死んだ。兄も逝った。時ちゃんは自然は一番美しくもあり、一番恐ろしい、といいました。いくら大きな人、世界で一番えらい人でも、自然に立ち向かえる人はいないと思います。」これは、愛知県飛島中学校生徒の伊勢湾台風時における作文の一節である。
伊勢湾台風は、昭和34年(1959)9月26日の夜、東海地方を来襲、死者・行方不明5041人、全壊・流失家屋4万8308戸、名古屋港では過去最高と見られる3.5m高潮がおこった。名古屋は台風災害の被害が少なく、警戒不足と戦後の開発に伴う地盤沈下が被害を拡大したという。

岡邦行著『伊勢湾台風 水害前線の村』(ゆいぽおと・平成21年)は、伊勢湾台風から50周年にあたる今日に、その台風について、愛知県海部郡飛島村にスポットあて、現在までの村人の生き様を追っている。飛島村にも、「伊勢湾台風殉難之碑」が建立されている。その碑には、「時 昭和34年9月26日の夜 史上最大のいわれた伊勢湾台風が風速50米の烈風と異例の高潮津波を伴って当地方を来襲し荒れ荒ぶ怒涛は瞬時に5米70糎の海岸堤防を打ち越え決壊し流失せる家屋百三十二戸に及び家財は全滅しあまつさえ飛島村住民百三十名の尊い人命を奪い去ってしまった。高波は家を越え濁流渦巻く暗闇に親を呼び子の姿を求め吾子の名を呼び続け様こそあわれ当時の惨状を偲べば涙あるのみ悲惨の極みである
茲に殉難者の御霊安かれと念じ湛水の中で衣食に窮した九十日に及ぶ大自然の猛威を心の戒めとして後世に語り継ぎ全国並に海外から寄せられた温かい救護の御好意を謝し伊勢湾台風殉難之碑を建設し長く慰霊の誠を捧げる
昭和三十八年三月 建立 愛知県海部郡飛島村」
この書は、住民や村役場職員、それに気象台職員の膨大なインタビュウによって書かれており、その当時の人々の災害に遭遇したときの行動を詳細に見事に復元されている。災害におけるソフト対策としての、常日頃からの住民同志の絆、コミニュケーションの重要性が指摘され、このことは今日でも通用する。
(H21.10.30) 古賀河川図書館 古賀邦雄







