ア−カイブスの『河川書誌考』〔1〕 江戸期の河川文学
(1)河川文学の定義
初めて、文学作品のジャンルに「河川文学」と称したのは、高崎哲郎ではな
かろうか。高崎哲郎著『・開削決水の道を講ぜん−幕末の治水家船橋随庵・』
(鹿島出版会・平成12年)に「河川文学小品集」という表現があったからであ
る。勿論、『・開削決水の道を講ぜん・』も河川文学である。この書に「河川
文学小品集」として、「沼の幻影−下野・越名沼の無料渡船秘話」、「悲運の
名代官−上野国・水利家岡上景能の快死」、「濁流に消えた母娘巡礼−水神に
供せられた人柱」が収録されている。この3作品は、河川を巡る人々の誠実さ
が伝わってきて、涙を禁じえなかった。情の作品である。
河川文学をどう捉え、どう定義するかは難しいものの、敢えて次のように試
みた。「河川文学とは、河川(湖沼、池、ときには森や海も含めて)を治水、
利水、親水の観点から捉えて、公共の福祉のために施行される事業、その事業
に尽くす人々の人間性を追求した小説、記録、評伝の作品である」。同様に、
児童のために著された書も含むものとした。河川文学は、水を媒介とする河川
をテ−マとしたものであり、事業や人物を扱った作品であっても、その根底に
は河川が描かれていることが必要である。
この定義以外に河川をテ−マとした詩、短歌、俳句、紀行文、随筆もまた当
然に河川文学に値する。このジャンルは別に扱ってみたい。
河川事業の成否は、施行者の財政力、組織力、技術力が必要条件であるが、
その事業のニ−ズ即ち大義名分、地元の協力、世論のあと押しも絶対に欠かせ
ない。さらに、その時代におけるわが国の政治的、経済的、社会的な状況に多
大に左右されることがある。
河川事業の施行には、必ずや事業を行う側と行われる側との間に、利害関係
が生じ、葛藤や確執が起こってくる。また、行う側、行われる側の内部にも悶
着が起こる。ときには死に至ることもある。これらの軋轢が人間のドラマを生
む。治水、上水、灌漑用水、舟運事業、近年ではダム建設事業における人間の
ドラマに関して、その時代背景を描きながら、多くの著名な作家たちが小説化
してきた。江戸期における河川文学を追ってみる。
(2)玉川上水事業の作品
近世の上水道の開設の目的用途について・玉川上水、水戸笠原水道などの一
般の飲用 ・小田原上水、甲府用水など灌漑と兼用するもの ・鳥取水道、金
沢辰巳用水など官公用専用の三つに分類されると、堀越正雄著『・日本の上水
・』(新人物往来社・平成7年)に述べてある。
慶長8年(1603)徳川家康は江戸幕府を開いた。江戸が日本の中心として位
置づけられると、都市の発展、人口増加に伴い、いままでの井之頭池を水源と
する神田上水では、江戸市中の飲料水が不足しはじめてくる。承応2年(1653
)老中松平伊豆守信綱を惣奉行、道奉行伊奈半十郎忠治を監督者、玉川庄右衛
門、清右衛門兄弟を工事請負人等によって、多摩川羽村取水口から江戸四谷大
木戸までの高低差約 100m、延長約43Kmの玉川上水が完成した。杉本苑子の『
・玉川兄弟・』(朝日新聞社・昭和49年)は、玉川兄弟の活躍を中心にすえて
上水開削の苦悩を描く。
完成後、玉川上水は明治34年(1901)の近代水道の普及にともなって廃止さ
れる。 248年の間、江戸の町、東京の町に多摩川の清流水を送り続けた。さら
に、羽村取水口からの水は、野火止用水、福生分水、熊川分水、拝島分水、千
川分水などによって武蔵野台地の農地を潤し続けていく。一つの目的を持った
利水事業が成功するとのちのちに分水されて、他の地域へと供給されて、その
地域が水の恩恵を受けて発展していくこととなった。
玉川上水事業をめぐって、松浦節の『・伊奈半十郎上水記・』(新人物往来
社・平成14年)は、幼馴染みであった半十郎と伊豆守信綱が対立、確執が描か
れ、信綱が悪辣狡猾さ、権力をふるう悪人となっていて興味をひく。半十郎は
下総関宿にて利根川東遷の改修工事の指揮をとっていたところ、老中の命令で
玉川上水開削の監督に加わる。半十郎は、羽村取水口の設計図を見て、信綱の
川越藩新田開発に利用する野火止用水のことを見抜く。
半十郎と信綱の確執を追ってみる。
<半十郎がもう一点だけ確認したいことがあると審議を求めた。
「多摩川の筏流しはご存じの通り、江戸の町の建築木材の供給源と
なっておる。これを通すために兄弟の案では開いておらぬが、堰を
少々開けてやらねばならぬ」
信綱が驚いて顔を挙げた。
「江戸に届く飲料水の確保が第一でござろう。寸尺たりとも、開け
る必要はない。各々方よろしござるな」
「筏師の生活も考えてやらねばならぬ。多摩川を横断して堰を築き、
溢れ落ちる水を流す構造では垂直に落下する水流を鮎は登れませぬ。
上流の漁師の生活を脅かす。ゆえに筏を通し、鮎を登らせるために
何間開けるかは、この半十郎にお任せ願いたい」>
地方功者の半十郎は、地元からの要求に誠実に対処していることがよく分か
る。このことは、今日の河川事業に係わる補償問題と根本的に何ら変わりはな
い。同様に、伊奈半十郎、半左衛門父子側から玉川上水事業を捉えた松浦節の
『・約束の奔流−小説・玉川上水秘話・』(新人物往来社・平成15年)は、四
谷大木戸に到達した上水を江戸城、江戸市中へ配水する工事に取り組んだ石工
、大工たちの技と工夫、そして心意気を描く。「辛夷の花」、「約束の奔流」
、「木樋に賭ける」、「角筈村騒動」の構成からなる。半十郎は、土木技術者
としての誠意が表現されているが、逆に、玉川兄弟は地域住民に対し、乱暴な
工事請者・管理者として描かれている。著者は玉川兄弟の行動について、鈴木
靖著『・玉川上水の利用とその支配−近世前期から中期の角筈村を題材に−・
』(新宿歴史博物館研究紀要三号・平成8年)の市井の資料から採用している
。
「辛夷の花」のなかで、上水の事業地に要する高井戸地区の家屋7軒の移転、
畑を失う者5軒に対し、半十郎は直ちに代替地を与え、その代替地の開墾の援
助を行う。さらに3年間の年貢免除、公儀の奉仕と諸役の免除、家屋移築費用
5両、食糧米一俵、種籾、肥料などの補償を行った。半十郎の補償の考え方は
、現在の憲法29条「財産権はこれを侵してはならない。財産権の内容は公共の
福祉に適合するように法律でこれを定める。私有財産は正当な補償の下にこれ
を公共のために用ひることができる」の規定に通ずるもので、格別な共感を覚
える。
児童書に、小沢長治・作『・江戸に水がやってきた・』(岩崎書店・昭和57
年)が刊行され、江戸市民が玉川の水を嬉々として迎える絵が印象に残る。な
お、上水にかかわるものとして、かつおきんや・作『・辰巳用水をさぐる・』
(アリス館牧新社・昭和50年)は辰巳用水の施工者ナゾの人、板屋兵四郎を追
求した児童書である。
(3)灌漑用水事業の作品
(イ)岡登用水の開削
大島萬世の『・天狗岩奇譚 岡上景能・』(立誠社・昭和18年)は、上州代
官岡上次郎兵衛景能が寛文年間(1661〜1673)に渡良瀬川の水を取り入れ、群
馬県笠懸野の新田開発を行うが、溜池の漏水被害、洪水被害などの工事費増大
、これに伴う公金無断流用の責めを負い、切腹に至るまでの謹厳な一生を描く
。切腹にあたって景能の心境が妻子に語られている。
<「わしは、人の見向きもしない困難な仕事に三十有八年も費やし
てきた。一生を捧げ盡して来たと云ってもよいかも知れぬ。その為
めに、そちたちにも共々難儀をかけて来た。しかし、わしの心は日
本晴れぢゃ!決して悪いことをして来たとは思はない。いや、自分
の口から云ふのはこころがとがめるが、わしはお國の為めに、立派
に御奉行をして来たと思ふ。開拓地の百姓達も幸福にして来たと思
ふ」>
景能の死後、岡登用水は一端廃棄されるが、幕末には再開鑿され、明治初年
には拡張工事、その後も改修工事がなされ、今日、多くの人々に利用されてい
る。文学ではないが、浅田晃彦著『・考証 岡上景能・』(奈良書店・昭和58
年)を挙げる。
(ロ)箱根用水の開削
芦ノ湖の流出口は、早川(神奈川県)起点の湖尻水門と深良川(静岡県)起
点の深良水門の2ケ所のみである。湖尻水門は洪水調整を、深良水門は利水調
整の機能を持ち、この2つの水門の相互調整によって芦ノ湖の水位が確保され
、深良用水の安定的な水量維持がなされている。
この深良用水は即ち箱根用水は、湖尻峠の直下に隧道を掘鑿し、芦ノ湖の水
を静岡県に導いた。タカクラ・テルの『・箱根用水・』(東邦出版社・昭和46
年)は、深良村の名主大庭源之丞、江戸の商人友野与右衛門たちが、芦ノ湖の
水を支配する箱根神社快長僧正の助力を得ながら、徳川幕府勘定奉行、小田原
藩、沼津藩との交渉を経て、箱根用水の着工から完成までの苦闘を描く。この
小説はついに水がきた喜びと幕府の手によって友野与右衛門が召し捕られ、獄
死する悲しみで終わっている。箱根用水は寛文6年(1666)着工、寛文10年(
1670)に貫通した。全長1280メ−トル、平均勾配 250分の1 、2ケ所の換気吼
、芦ノ湖取水口と深良取水口の高低差は 9.8メ−トルである。
後に、深良水路(深良川)を堀り、隧道の水は黄瀬川に合流させ、黄瀬川筋
には新田開発に必要となる用水堰と分水堰が設置された。さらに大正11年から
12年にかけて深良用水を利用した発電所が3基建設された。今日では裾野市な
ど、多くの企業が進出し、深良用水の水は、農業用水のみでなく、生活用水、
工業用水に多目的に利用されている。
この『・箱根用水・』を原作とした、昭和27年山本薩夫、楠田清、小坂哲人
監督『・箱根風雲録・』(新星映画・前進座作品)が映画化され、友野与右衛
門に河原崎長十郎、妻リツに山田五十鈴が演じた。
なお、児童書として、若山三郎著、岩淵慶造画『・村をうるおした命の水−
箱根用水をつくった人々の技術と熱意の記録・』(PHP研究所・平成10年)
が刊行されている。
(ハ)大石堰の開削
筑後川は、阿蘇・九重山郡を水源として、熊本県、大分県、福岡県、佐賀県
の4県を貫流しながら有明海に注ぐ。全長 143Km、流域面積2860・で九州第
一の河川である。
筑後川の中流部福岡県、両筑平野の灌漑用水として、上流から左岸側に袋野
堰寛文8年(1668)、大石堰寛文4年(1664)、右岸側に山田堰寛文4年(16
64)、半世紀後に床島堰正徳2年(1712)の4堰が築造されている。
林逸馬の『・筑後川・』(第一藝文社・昭和18年)は、五庄屋(のちに六庄
屋が加わる)が大石堰・長野水道築造の苦悩とその喜びを描く。筑後川左岸沿
岸の浮羽郡はわずかな台状地になっており、住民たちは主に畑作によって生計
を立てていた。これをみかねて、栗林次兵衛、山下助左衛門、重富平左衛門、
本松平右衛門、猪山作之丞の5名の庄屋が決死の覚悟で、筑後川の水を取り入
れ工事を有馬藩に願い出る。寛文4年普請奉行丹波頼母を最高監督者、郡奉行
高村權内らの手によって60日間で大石堰・長野水道を開削。もし、失敗のとき
は五庄屋は磔の極刑に処せられることになっていた。工事中にはすでに、5本
の磔柱が立てられていた。「磔柱」に対峙する五庄屋の心理を次のように描写
する。
<このキの字型の柱の上に、自分の體が大の字なり固く縛りつけら
れて、己の血がドロドロ流される日があるかも知れぬと思ふと、屈
辱ばかりか、全身が冷たく凝結し、ギョッとする程の恐怖を覚える
のだ。すると、下唇を噛み切りたいやうな反撥を感じて、糞ッ、負
けるものかと、いきりたち、挑みかゝろうとする物狂ほしい激情に
狩りたてられるのである。>
のちに、大石堰・長野水道は拡張がなされ、現在では面積約2100ヘクタ−ル
、組合員数約3500名を抱える大石堰土地改良区によって管理運営がなされてい
る。五庄屋は長野水神社(明治18年に創建)に合祀され、毎年4月8日五庄屋
の遺徳に感謝する長野五霊祭が営まれている。
(ニ)岩熊井堰の開削
徳川中期、牧野氏治世下延岡藩(8万石)は五ケ瀬川に岩熊井堰を完成させ
た。城雪穂の『・藤江監物私譜/笛女覚え書・』(鉱脈社・平成8年)は、延
岡藩家老藤江監物が領民のために、岩熊井堰に賭ける執念、そして挫折、獄死
の苦渋の一生を描く。
享保9年(1724)に始めた井堰工事は、難工事、さらに暴風雨によって既設
の水路が破壊されて遅延する。藩の財政も逼迫してくる。いつ完成するとも知
れぬ井堰に大金を使うことに、藩内から反発藩士が増加、ついに享保16年(17
31)4月、反対派家老達の勢力が強まり、藩主によって、軍用金の井堰流用の
罪に着せられ、監物とその家族は日之影町船尾の牢に閉じ込められる。同年8
月長男図書獄死、その1ケ月後、監物は自ら食を断ち獄死する。45歳であった
。
その後、岩熊井堰は、郡奉行江尻喜多右衛門の手によって工事が続行され、
監物の死後3ケ年を経て、享保19年(1734)に完成した。開発面積1100ヘクタ
−ル、用水路12キロ、6ケ所のトンネルであった。俗に「雲雀の巣」と呼ばれ
る荒れ地も良田に変わった。
城雪穂は宮崎県の中学校教師である。この書の解説で、城雪穂の「小さな旅
」というエッセイについて次のように紹介されている。「狭い平地と荒れた山
野の日向にも血なまぐさい戦史がある。それゆえに苦悩した小藩の哀史が秘め
られている」。このような歴史的視点から、あらゆる日向地方の資料を漁り、
小さな旅を続けて取材がなされ、監物を発掘された。監物の人間像を浮き彫り
にした格調の高い作品となっている。この小説は、昭和56年「九州文学」4月
、5月号に発表され、九州文学賞を受賞した。
なお、各々の河川事業については、水土を拓いた人びと編集委員会(社)農
業土木学会編『・水土を拓いた人びと−北海道から沖縄までわがふるさとの
先達・』(農山漁村文化協会・平成11年)を参考とした。
(会員:水・河川・湖沼関係文献研究会)
ア−カイブスの『河川書誌考』〔2〕 江戸期の河川文学
・4.土佐藩家老野中兼山の作品・
吉野川の早明浦ダムから3キロ程下った帰全山公園(高知県本山町)に野中
兼山像が建立されている。この像は、昭和44年11月「明治百年」と「早明浦ダ
ム」の建設を記念として造られた。兼山像は、二本差しに、左手に地図を持ち
ながら工事の陣頭指揮をとっている。その姿は吉野川を見下ろしているかのよ
うである。
兼山は元和元年(1615)〜寛文3年(1663)の江戸前期の治政家、儒学者で
ある。土佐藩(24万石)の家老として二代藩主山内忠義に仕え、藩財政確立の
ために治水や港湾改修、殖産興業に努めた。しかしながら、兼山は才能には秀
でていたが、人の過ちを許すことのできない、厳しい性格であったという。こ
の性格がのちに藩内の反感を誘い、家老失脚につながることとなる。
兼山の業績を挙げる。・吉野川流域での宮古野溝、下津野溝、行川溝の開削
・物部川流域では灌漑用水として父養寺井、山田上井、山田中井、野市上井、
舟運として舟入川、大津川の開削。山田堰は寛永16年(1639)に着工。完成は
兼山没後であり、25年の歳月を要した。山田堰は湾曲斜め堰であったが、昭和
48年に上流800mの地点に合口堰が築造され、昭和57年一部を残して撤去された
。・仁淀川流域では八田堰、鎌田堰、四万十川流域では後川のカイロク堰、麻
生堰、松田川流域では河戸堰の築造。次に・築港として津呂港、室津港の開鑿
、柏島港の突堤、浦戸港の波止を行い、漁民保護、海運安全を図った。さらに
・産業奨励として養蜂業、陶器工業を興し、捕鯨組織、苗木配付の山林制度を
制定した。
このような、30年にわたっての兼山の積極施策は独裁的だと藩内から反感を
買い、住民の生活を困窮させたとして失脚、蟄居させられ、49歳で急死した。
兼山の功績があまりにも秀抜していたためか、江戸幕府が兼山を恐れ、その失
脚には幕府がなんらかのかたちで関与したとも考えられる。
大原富枝の『・婉という女・』(講談社・昭和46年)は「今日、安東家から
お使者が見え、幕府からの赦免状を受けた。お使者の帰ったあと、母上を中に
、乳母、姉上、妹と相擁して泣いた」と始まる。兼山の遺族達が宿毛に40年間
幽閉され、野中家の男達が途絶えると赦免される描写である。婉は兼山の娘で
ある。この小説は、今井正監督によって、同名「婉という女」(ほるぷ映画・
昭和46年)で映画化され、「罪もない人間をいかなる権利で閉じ込めるのか、
権力者への反抗」を捉え、緒方拳、岩下志麻、山本学が好演している。このシ
ネマは兼山の河川事業のシ−ンはない。
さらに、土佐藩家老の栄光とその挫折を描いた田岡典夫の『・小説野中兼山
(上)、(中)、(下)・』(平凡社・昭和53年〜昭和54年)は史実に基づい
ている。
この書に、河川事業の描写は少ないが、仁淀川における八田堰工事について
、次のように捉えている。
現今では、堰は流れに対して直角に、真一文字に築造するが、それ
は鉄筋コンクリ−ト工法があればこそできたのだ。木材と石材に頼る
しかない当時は水勢を幾分でも弛めるため弧状に築造しなければなら
ない。そして、その弧の描き方もそれぞれの川の様相によって勘案し
なければならなかった。
「ごらんのとおりでございます−」と一木権兵衛は堤の上から指さし
て
「流れの緩急にしたがいまして仮に杭を打たせておきました。この形
に築いてゆこうと存じます」
「その緩急はやはり糸流しで測ったのか」
「さようでございます」
「それで堰の長さはいかほどになるのか」
「ざっと二百三十間(約 420メ−トル)でございます」
放物線の八田堰は、江戸期における「用」、「強」、「美」を現しているの
だろう。
また、戦前発行の松澤卓郎の『・野中兼山・』(大日本雄辯會講談社・昭和
16年)、鯱城一郎の『・野中兼山・』(東和出版社・昭和17年)、吉田喜市郎
の『・野中兼山良継・』(神田書房・昭和18年)は、偉人として讃美した読物
となっている。
今年(平成16年)は兼山没後 341年であるものの、現在でも高知の人々から
畏敬の念を持ち続けられている。なお、兼山は上杉鷹山、熊沢蕃山と並び天下
の「三山」と称えられている。
なお、小説ではないが兼山の写真集については、寺田正写真『・兼山・』(
寺田正写真集刊行会・平成5年)、濱田晃僖写真『・兼山先生遺蹟集・』(濱
田直子・平成5年)の書がある。濱田の写真集は昭和17年〜19年にかけて山田
堰、八田堰等が写し出され貴重な資料となっている。この書のダイジエスト版
、青空編集室編・発行『・執政野中兼山の偉業・』(平成9年)も発行されて
いる。
兼山に関する書として、松野尾儀行著『・南海之偉業−野中兼山一代記・』
(開成社出版・明治26年)、塚越芳太郎著『・野中兼山・』(民友社・明治34
年)、小関豊吉・辻重忠共著『・野中兼山(全)・』(冨山房・明治44年)、
西内青藍著『・偉人野中兼山・』(野中兼山出版祭典事務所・明治44年)、川
添陽著『・野中兼山・』(高知県教育会・昭和10年)、同『・烈女野中婉子の
話・』(昭和11年)、高知県文教協会編・発行『・野中兼山関係文書・』(昭
和40年)、平尾道雄著『・野中兼山と其の時代・』(高知県文教協会・昭和45
年)、神谷正司著『・時代と野中兼山論・』(山内家史料刊行委員会・昭和56
年)、山田堰記録保存調査委員会編『・山田堰−物部川水利史・』(土佐山田
町・昭和59年)、春野町教育委員会編・発行『・唐音−野中兼山遺構調査報告
書・』(昭和62年)、横川末吉著『・野中兼山・』(吉川弘文館・平成2年)
、内海院元吉著『・山内侍兼山・』(共生出版・平成7年)、依光貫之著『・
野中兼山−婉女そして土佐山田・』(南の風社・平成12年)、小川俊夫著『・
野中兼山・』(高知新聞社・平成13年)を掲げる。
・5.宝暦治水工事の作品・
野中兼山没後90年、宝暦3年(1753)12月25日徳川幕府は、薩摩藩(77万石
)に、濃尾平野を流れる木曽、長良、揖斐(伊尾)三川の治水工事を命じた。
これを「宝暦治水工事」という。
木曽川文化研究会(代表久保田稔大同工業大学)編『・木曽川は語る−川と
人の関係史・』(風媒社・平成16年)によって、この工事を追ってみる。
藩主島津重年はまだ25歳の若さであったが、苦悩の末に工事を受諾し、家老
平田靱負を総奉行、伊集院十蔵を副奉行に任命した。 750人の藩士は薩摩から
、 197人の藩士は江戸からそれぞれ美濃へ従事したが、総計 947人は塗炭の苦
しみを味わうこととなった。
工事区間は木曽川河口上流50キロ〜60キロまで、美濃郡、尾張郡、伊勢郡の
計 193ケ村にかかる大工事である。
工区は「一之手」から「四之手」の4工区に分け、全工事 149ケ所工事は総
延長57キロに及んだ。「三之手」の大榑川の洗い堰工事、「四之手」の油島閉
め切り堤工事はとくに難工事であった。
工事方法は堤の切れた所の築立、堤の上置、外腹付、内腹付、洩水の切り返
し、そのために蛇籠、柵、石堤、蒔石、根杭によるものであったが、石がなか
なか集まらず苦労している。またたび重なる出水に難儀し、出費が増加した。
なお、幕府はこの工事の総責任者に勘定奉行一色周防守正 、御目付役代に
石野三次郎、大久保荒之助、浅野差膳、新見又四郎、普請見廻役に美濃郡代青
木次郎九郎、代官吉田久左衛門、水役奉行高木新兵衛、高木玄蕃、高木内膳を
それぞれ任命している。
宝暦治水工事について、黒葛原祐の『・滔々記抄・』(治水社・昭和55年)
により、その主なる経過を次のように纏めてみた。
宝暦3年5月〜7月 勘定奉行神尾若狭守の内申により、代官吉田久左衛門
木曾三川普請ケ所視察見分
8.18 木曾三川洪水
12. 25 木曽川にお手伝い普請の命令薩摩守重年にくだる
宝暦4年1.29 薩摩総奉行平田靱負一隊美濃へ出発
2.27 春普請第一期工事(定式・急破)鍬入れ
3.12 一之手定式普請竣工
3.13 四之手急破普請竣工
4.14 薩摩藩士永吉惣兵衛、音方貞淵切腹死
4.22 高木新兵衛家来 内藤十左エ門切腹死
4.24 平田靱負 難場外請けのこと申請
5.26 一色周防守 難場6ケ所に付き外請けを認む
6.10〜11 揖斐川筋洪水
7.5 薩摩藩主重年 美濃現場巡視
7.11〜12 揖斐川、木曽川洪水
(この間、第2期工事の準備)
9.24 秋普請(第2期工事)開始、油島の下堤着手
12.18 二之手 水行普請(河川改修)竣工
宝暦5年1.13 幕府派遣御小人目付役竹中伝六切腹死
3.24 三之手 竣工
3.27 一之手 竣工
四之手 竣工
3.28 大榑川洗堰竣工
5.24 平田靱負 国家老あてに工事終了書面報告
5.25 平田靱負 美濃大牧にて切腹死(52歳)
6.1 薩摩藩主重年 工事終了を老中に届ける
6.16 薩摩藩主重年 江戸藩邸で病死(27歳)
幕府が宝暦3年12月に命じて以来、約1年5ケ月て工事が完了した。
当初幕府は14万両を見積もっていたが着工の時点では30万両、出水事故等に
より、最終的に40万両とはね上がり、薩摩藩の財政は破綻した。
また、薩摩藩士 947人のうち、切腹死52人、疫痢による病死33人、総計85人
が死に至り、幕臣も2人切腹死である。
平田靱負は、この工事によって、藩財政の破綻、人的犠牲者を生じさせた責
任をとって、覚悟の自害であった。
このような治水工事にかかる薩摩藩士の悲運については、赤穂義士と同様に
大いに義憤を感じたのであろうか、多くの歴史小説が生まれている。
吉川英治の愛弟子といわれている杉本苑子の『・孤愁の岸・』(講談社・昭
和38年)は、平田靱負の立場からこの治水工事の虚と実を巧みにおりまぜて描
いている。このあとがきに、「宝暦治水に関する資料は少なく・・・・・突っ
込んで知りたければ、治水以外の他の資料を自ら読み、治水とのつながりを、
これも自らの空想で補ってゆくしかないわけなのだ」と歴史小説の構築の難し
さについても述べている。
さらに、岐阜出身の豊田穣の『・恩讐の川面・』(新潮社・昭和59年)は、
中日新聞に昭和57年7月〜12月に連載されたもので、木曾三川の地理、歴史に
基づきながら、水行奉行高木家のことを含めて、宝暦治水工事をよく捉えてい
る。御目付役代大久保荒之助の検分の場面である。
「不十分じゃな、十左衛門」と言った。
「堤の腹付、上置ともどもこれで木曾本流にこたえるには十分とはい
えまい」
その言葉を聞いて十左衛門は血が逆流するのを覚えた。
「微祿とはいえ、そちは侍であろうが。徒目付役並という職務を持ち
ながら満足に庄屋や百姓どもを差配できぬは、この恥と思え。普請の
不十分、しかと叱りおく」
高木新兵衛の家来内藤十左衛門は、御目付役代大久保荒之助に検分のとき罵
倒され、切腹死する。荒之助と庄屋たちの悪業の結果による欠陥工事であった
のだが。幕臣もまたこの工事に義憤を感じ自害している。
宝暦治水工事に関する小説については、中山義秀の『・木曽川物語・』(池
田書店・昭和31年)、岸宏子の『・水の勲章・』(中日新聞社・昭和50年)、
大坪草二郎の『・留魂記・』(葦真文社・昭和55年)、池水喜一の『・宝暦薩
摩義士物語・』(著作社・平成4年)、中村兵衛の『・熱血義人・』(伊勢新
聞社・平成6年)、吉田樹の『・宝暦 治水慟哭の大河・』(中日出版社・平
成14年)、新庄司三郎の『・小説薩摩義士伝余話・』(創栄出版・平成15年)
を掲げる。
児童書、岸武雄の『・千本松原・』(あかね書房・昭和51年)は、与吉を主
人公として農民の少年の眼で、宝暦治水工事に従事する薩摩藩士を同情的に描
いている。
(会員:水・河川・湖沼関係文献研究会)
ア−カイブスの『河川書誌考』〔3〕 江戸期の河川文学
・6.河村瑞賢の作品・
我が国の水運と海運を結びつけ江戸期の流通革命をおこしたのは河村瑞賢(
1618〜1699)である。気象、地理、土木の知識に長じていた瑞賢は東廻り、西
廻りの航路を確立した。寛永12年(1634)参勤交代の制定以降、急速な江戸市
街の発展に伴い、人口が増加、江戸に米を集める必要にせまられた。寛文10年
(1670)徳川幕府は福島地方の天領米輸送を瑞賢に命じた。瑞賢は阿武隈川を
改修し、天領米を阿武隈川河口の荒浜に集め、荒浜から平潟、那珂湊、銚子、
小湊を経て、西風を待って、三崎か、または下田を経由して江戸に運んだ、こ
の東廻りの航路によって1年を要していた輸送期間が3ケ月に短縮された。
さらに寛文12年(1672)、出羽国最上地方の天領米を江戸への輸送が命じら
れた。峯崎淳の『・大欲−小説河村瑞賢・』(講談社・平成13年)に、次のよ
うに描かれている。
「で、安上がりで安全な米運びを工夫しろというわけか、公儀は今年の
奥羽米で味をしめたな」
「川と海をつかい、船で江戸まで運ぶしかあるまい、と思います」
瑞賢が沈黙を破った。
「北へ上って津軽から東へ廻り、今年開いた荒浜から航路に乗せるか、
西に向かい瀬戸内から紀州、遠州を経て豆州から入るか、どちらかを選
ばねばなりません」
「何年か前に秋田の佐竹が津軽から東廻り米を運んだことがある。うま
くいったという話は聞いていない。もっともその時は常陸の那珂湊まで
しか来られなかったらしいが」
女中が煎茶を運んできた。
「来年、運ぶとなると北廻りか西か早く決めなければならん」英之進が
少し心配そうに言った。
瑞賢は茶をうまそうに啜った。
「西にしましょう」
「もう決めたのか。お主にはいつも驚かされる。東に廻った方が道程は
近いと思うが」
「西に廻れば西国を通ります。帰りの荷があります」
「なるほど」
あとで話を聞いた権次も、瑞賢の選択を支持した。津軽の海は竜飛岬
から尻屋岬の潮の流れが激しいうえに、陸奥、陸中、陸前の三陸海岸に
は良港がない、と言った。
最上地方の天領米は最上川河口の酒田に集められ、西廻り航路で日本海の小
木、福浦 、柴山、温泉津から下関に入り瀬戸内海を通り大阪、大島、南島町
、方座、畔乗、下田を経て江戸に輸送されるようになった。従来、敦賀から陸
路大津、桑名を経ての輸送は1年3ケ月要していたが、5ケ月で運ばれること
となった。四代将軍家綱の治世下、瑞賢は55歳であった。その後、瑞賢は、越
後高田の中江用水の開削、直江津港の改良、上田銀山、白峰銀山の開発など殖
産興業に力を注いだ。さらに淀川、安治川の改修に参加、これらの功績により
瑞賢は旗本に登用されている。元禄12年82歳で生涯を閉じ、鎌倉建長寺に眠る
。
高橋裕著『・河川を愛するということ−川から見た日本と地球・』(山海堂
・平成16年)の書で、筆者は瑞賢を「土木事業家として持つべき才能を兼ね備
えた天才であった。すなわち、技術、企業精神、集金能力、社会の動きを的確
に洞察する見識、で実行力を持っていた」と讃えている。
なお、瑞賢没後 300年記念フォ−ラム・シンポジュウムが、1999年6月15日
、16日に鎌倉市にて開催され、このときのシンポを記録した土木学会土木史研
究委員会河村瑞賢小委員会編『・河村瑞賢−国を拓いたその足跡・』(土木学
会・平成13年)が刊行された。この書には少年文学として、太華山人の『・河
村瑞賢・』(博文館・明治25年)も再録されている。
さらに、古田良一著『・河村瑞賢・』(吉川弘文館・昭和39年)によれば、
足立栗園著『・河村瑞賢・』(積善館・明治35年)、春秋居士著『・評伝河村
瑞賢・』(博文館・大正元年)、竹越与三郎著『・河村瑞賢伝・』(河村瑞賢
墳墓保存会・昭和9年)、藤原銀次郎著『・徳の人・智の人・勇の人・』(実
業之日本社・昭和31年)、池田順太郎著『・河村瑞賢・』(みちのく豆本の会
・昭和32年)を掲げ、その書の内容を論じている。
・7.大和川付替工事(中甚兵衛)の作品・
大和川は奈良県桜井市北方笠置竜門山脈に発し、初瀬川の渓谷を流下し、奈
良盆地に入る。さらに佐保川、飛鳥川、葛城川、竜田川などの支流を合わせ、
生駒山地の南麓を流れ大阪平野に流出する。柏原市から石川、東除川、西除川
を併合し、平野川を分流して堺市北部で大阪湾に流出する。延長68km。流域面
積1070・。
かつては、柏原市から北流して、大坂城の北で淀川に合流していたが、氾濫
の被害が激しいため宝永元年(1704)大和川付替工事により、直接大阪湾に流
出する現状に切り換えられた。この大和川付替工事に尽力した中心人物は河内
国今米村(現・東大阪市今米)の庄屋中甚兵衛(1638〜1730 )である。
北田敏治の『・大和川・』(創芸出版・昭和59年)、富士秀憲の『・河内の
夜明け−大和川治水中甚兵衛の執念・』(新和出版・昭和48年)、藤原秀憲の
『・河内の遺産(上・下)−大和川と中甚兵衛の生涯・』(新和出版社・昭和
58年)の小説がある。
ここで、畑中友次著『・大和川付替工事史・』(大和川付替 250周年記念顕
彰事業委員会・昭和30年)、藤原秀憲著『・大和川付替(川違え)工事史・』
(新和出版社・昭和57年)、中好幸著・発行『・改流ノ−ト・』(平成4年)
により、付替工事の経過を追ってみる。
明暦3年(1657) 河内農民ら大和川付替工事を江戸直訴
中甚兵衛が嘆願のため江戸に在住
延宝2年(1674) 淀川、大和川大洪水
3年(1675) 淀川、大和川大洪水
天和3年(1683) 若年寄稲葉正休、伊奈半十郎忠篤、河村瑞賢、淀
川、大和川治水検分
淀川・安治川の改修の決定
河村瑞賢は大和川付替工事を否定
貞享元年(1684) 河村瑞賢、淀川河口、安治川改修
治水をめぐる確執により、稲葉正休が大老堀田正
俊を殺す。正休もその場で斬殺される。
4年(1687) 大和川付替工事訴願
元禄2年(1689) 大和川付替工事訴願。大和川の河川敷となる農民
反対派も訴願
12年(1699) 河村瑞賢82歳で逝去
14年(1701) 洪水起こる 付替工事再検討
16年(1703) 大和川治水検分
宝永元年(1704) 大和川付替工事着工、8ケ月にて竣工
中甚兵衛66歳
2年(1705) 中甚兵衛出家
享保15年(1730) 中甚兵衛92歳で逝去
宝暦2年(1752) 鴻池新田の開発
天和3年若年寄稲葉正休らの淀川、大和川の治水検分について、前掲書『・
河内の夜明け・』に、次のように描かれている。
「河村瑞賢は、淀川を重点に水源、源流、河口のすべてに綿密な調査を望み、
稲葉正休は大和川筋を重点に日時をかけて調査したい意向であった。淀川を重
点の河村瑞賢は水運(交通)を中心に治水を考えていた。蔵屋敷を持つ大阪と
西国と江戸を結ぶ中継地として、穀物、その他の流通の円滑にあった。
大和川筋を重点にみる稲葉正休は洪水による作物の被害を如何に食い止め保
護するかにあった。その違いは政治的観点の違いもあったが、商人と百姓の側
に立ったそれぞれの立場のちがいでもあった。・・・・・・・・・・・・・
常に、幕府の勝手元に頭を悩ましている大老堀田正俊は、穀物一つにしても
、種を播いて育てることよりも、すでに実ったものを手取早く掻き集めること
に腐心していた。」
この違いが、商人側に立つ堀田正俊と農民側に立つ稲葉正休との決定的な確
執を生み、ついには城中の刃傷事件へつながったと、推測される。 刃傷事件
の起こった貞享3年、瑞賢の淀川河口、安治川の改修がなされているが、治水
上の効果は殆どなかった。その20年後に中甚兵衛の長い夢であった大和川は付
替工事が竣工し、今日の大和川の流路に変わった。今年(2004)は大和川付替
工事竣工 300年にあたる。
同様に、庄屋三代にわたって治水にかけた物語がある。湖西の高島郡深溝村
(現・滋賀県新旭町)の庄屋藤本太郎兵衛は、たび重なる琵琶湖の水害に悩ま
され、湖岸 200ケ村に呼びかけ、瀬田川の底ざらえを徳川幕府に働きかけた。
瀬田川下流村の対立を乗り越え、天明3年(1783)の陳情から天保2年(1831
)に許可が下りる50年、その子、孫にわたって治水に尽力した。その苦闘を描
いた徳永真一郎の『・琵琶湖に命かけて・』(国際情報社・昭和58年)の小説
がある。湖岸が水浸しになる現象は瀬田川に南郷洗堰が完備する明治末期まで
続いた。昭和59年〜平成4年琵琶湖総合開発事業が施行され、湖岸周辺には排
水機場の設置により水害は減少した。
・8.利根川東遷、寛保2年の大水害、船橋随庵の作品・
江戸期における利根川を中心として治水利水事業に携わった人々を精力的に
探究した、作家高崎哲郎の『・荒野の回廊・』(平成14年)、『・天、一切ヲ
流ス・』(平成13年)、『・開削決水の道を講ぜん−幕末の治水家・船橋随庵
−・』(平成12年)の3冊の小説が鹿島出版会から発行されている。
『・荒野の回廊・』は、江戸期・水の技術者の光と影をテ−マとして、第1部
夜明けの青い風(利根川東遷と江戸川誕生)、第2部 大地の叫び声を聞け
(水戸藩と勘十郎堀)、第3部 水、水路を走れ!(江連用水と名主三義人)
の構成からなっている。
水の技術者の光は、利根川の東遷を図った関東郡代伊奈忠治、江連用水の再
興を図った荒川又五郎、稲葉儀右衛門、猪瀬周助の3人は、それぞれに成功を
修めたからこう表現されている。
一方、その影は不成功に終わった河川事業を表している。水戸藩における勘
十郎堀は、涸沼側茨城町海老沢から巴川側鉾田までの約7キロの掘削により、
物資輸送の短縮を図るために宝永4年(1707)に着工された。しかしながら松
波勘十郎の技術者としての未熟さ、即ち、測量設計の不十分さ、それに資金力
の弱さ、地元民の離反が重なって宝永6年(1709)に工事は放棄され、勘十郎
は獄死した。さらに小説には、瀬谷耕作の『・勘十郎堀・』(雄山閣出版・平
成2年)もあり、また、運河掘削を描いた居切堀について、中村ときをの『・
居切堀割川・』(茨城県神栖町観光協会・昭和52年)がある。
次に『・天、一切ヲ流ス・』は、寛保2年(1742)8月、関東甲信越を襲っ
た超大型台風による大水害を描いている。「戌の満水」と呼ばれるこの水害は
千曲川、利根川、荒川、鬼怒川、小貝川、江戸川の流域に大被害を及ぼし、江
戸市街も最大の水害に遭遇した。徳川幕府は、この復旧のため、西国10藩、伊
勢・津藩、越前・鯖江藩、但馬・出石藩、備前・岡山藩、備後・福山藩、長洲
・萩藩(吉川家)、讃岐・丸亀藩、肥後・熊本藩、豊後・臼杵藩、日向・飫肥
藩に対し、利根川、荒川、江戸川等における災害地域に手伝い普請を命じた。
この小説は、西国10藩が8月から翌年4月にかけて、手伝い普請の完了までの
動向を、各藩の記録文書等を駆使し、克明に捉えている。堤防構築、川浚い、
川水の分流が主な工事で、真冬にかかり、寒さと飢えとの闘いであった。竣工
後、10藩の財政はそれぞれ困窮した。
この水害は享保改革を図った8代将軍徳川吉宗の治世下である。新田開発を
急速に進めた開墾、開発、干拓が一要因をなしたとも、いわれている。信州上
田藩主松平忠愛が建立した供養碑に刻まれた「天、一切流比、 合掌」から、
この小説の題名がとられている。なお、幕府は上田藩を含む千曲川流域の災害
復旧には、一切手伝い普請を命じていない。
信濃毎日新聞社編・発行『・寛保2年の千曲川大洪水「戌の満水」を歩く・
』(平成14年)は、その水害地を踏査し、航空写真と地図を多用して 260年前
の軌跡を蘇らせた。
3冊目の『・開削決水の道を講ぜん・』は、幕末の治水家関宿藩船橋随庵(
1794〜1872)の生涯を描いている。随庵は、利根川、江戸川の水運要衛・関宿
の川関所の警備にあたりながら、これらの河川地帯を探索し、「この関宿の地
には日本一の大河が流れている限り、農民の喜びも悲しみも何度も繰返される
」との信条を抱き、常に農民の立場から治水、利水を図った。
その功績は、関宿悪水落堀の大水路施行であり、これにより水害が激減し、
水腐地が美田に変わった。この水路はいまでも現役である。長須沼、境町蓮沼
、浅間沼、鵠戸沼の干拓を行っている。この干拓による新田を農民たちに平等
に与えるように提言したため、藩内の重臣から反感をもたれ、冤罪で牢に閉じ
込められた。
無罪放免後、随庵は、幕末動乱江戸非常時の糧米の確保として霞ヶ浦、印旛
沼、牛久沼、長井戸沼、館林沼、板倉沼、手賀沼の干拓を行うこと、治水政策
として、利根川の川床の高さから水害を防ぐため、中利根川の流れを江戸湾へ
流すように、通水用水路の掘削を提言している。また、ペリ−の黒船来航を契
機として、随庵は関宿藩に農兵隊を結成させ、警備にあたらせた。農民に新田
を平等に与える試み、農兵隊の発想は、すでに武士社会の崩壊を見込んでいた
のであろう。随庵の晩年は、妻に先立たれ、跡継ぎの息子は佐幕派に走り、行
方知れず、赤貧のなかで明治5年78歳の生涯を閉じた。随庵が書き残した利根
川治水等に関する書は百巻にのぼり、明治以降の治水政策上に多大な影響を及
ぼした。
(会員:水・河川・湖沼関係文献研究会)
ア−カイブスの『河川書誌考』〔4〕 江戸期の河川文学
・10.出雲平野の治水家・
江戸期に入っても、出雲平野は斐伊川、神戸川の洪水、宍道湖の増水によっ
て絶えず水害を被っていた。寛永12年頃、いままで日本海へ流出していた斐伊
川は、洪水によって東へ流れを変え、宍道湖へ注ぐようになり、さらに松江藩
の領民を悩ました。出雲平野の河川開削を行い、水害を減災し、新田の開発を
図り、領民を助けるために大梶七兵衛、周藤彌兵衛、清原太兵衛の「出雲三兵
衛」と呼ばれる治水家が輩出した。
・ 大梶七兵衛の作品
寺井敏夫著『・小説・治水の偉人 大梶七兵衛・』(HNS人間自然科学研
究所・平成14年)から七兵衛の業績を追ってみる。
延宝5年、七兵衛夫婦は荒木浜に居を構え、砂地の土地柄に苦労しながら松
の植林を行っている。さらに荒木浜へ斐伊川の左岸、来原地点を取水口として
高瀬川運河を開削、このときも砂地に悩まされ、取水が地中に吸い込まれて流
れず、川底に筵を敷き、その上に粘土を敷きつめ漏水を防いだ。この工事の間
、近郊の農民達から妨害を受け、松江藩の重職たちの確執にまきこまれながら
も、これらを乗り越えて高瀬川の開削を行った。
七兵衛は来原の取水口が木樋で施工されたことを懸念し、将来、岩樋に変え
るよう「来原岩樋開削下図」を遺言として残した。子の朝定は不慮の死に遭遇
、その遺志を引き継ぎ完成させたのは孫の朝則で、正徳2年のことである。こ
の小説に、岩樋における閘門方式に関し、神門奉行大木源右衛門と朝則との問
答が次のようにみられる。
「斐伊川と高瀬川の落差はいかほどみているか」
朝則は、大木の問いに好意を感じた。
「斐伊川の水位によりますが、約8尺とみています」
「その差をいかにして舟を渡す」
「岩樋を二つの水門で区切り、水を調節します」
「樋門の大きさは」
「樋門の長さは十二間、さらに高瀬川の側に東西十間、南北八間の池を
そえ、都合長さは二十二間、幅は八尺五寸、高さは一丈七尺を考えてい
ます」
「池は何に用いるや」
「舟の踊り場で、舟の方向を定めて高瀬川に導きます」
「舟はいかようにして通すや」
「樋門の中に二つの水門を設けます。舟がまいりますと、一の水門を開
き舟を中に入れ、水門を閉じ、次に二の水門を開き、水を放出し、水位
が高瀬川と等しくなってから舟を導きます」
青山士の従事したパナマ運河は、1914(大正3)年に完成、高瀬川と同様な
閘門方式を採用されている。この方式をもって、高瀬川ではパナマ運河完成よ
り、約 200年前に竣工しており、驚くべきことである。七兵衛はこのような高
度な土木技術を誰に学んだのであろうか。三浦基弘・岡本義喬編『・日本土木
史総合年表・』(東京堂出版・平成16年)によると、「延宝2年水谷勝隆・勝
宗・高梁川河口に 507haの新田を開発、高瀬船通航のため日本最古の閘門式運
河・備中の高瀬通しを開通」とある。恐らく、この高梁川から学んだものと推
測される。
なお、大梶七兵衛、後述する周藤彌兵衛、清原太兵衛に係わる「出雲三兵衛
」の物語は、各々に小説、児童文学、漫画の3部作で構成されており、これら
の全ての書は、HNS人間自然科学研究所(松江市乃木福富町 735-188)から
刊行されている。
七兵衛については、児童文学として村尾靖子・作、高田勲・絵『・開拓と治
水に生涯をかけた大梶七兵衛 出雲の虹・』(平成14年)、漫画として寺戸良
信・作『・治水の偉人伝 大梶七兵衛・』(平成14年)の書がある。
次のように、出雲平野における三兵衛の河川開発史をみてみよう。
1615(元和元)年 大阪夏の陣豊臣家滅亡
1635(寛永12)年 斐伊川、大洪水で宍道湖へ流れを変える
1650(慶安3)年 大梶七兵衛 間府川開削
1652(承応元)年 初代周藤彌兵衛 意宇川日吉切通し
第一期完成 新田を開く
1654(承応3)年 日吉切通し付近古川堤防決壊
新田流出
1674(延宝2)年 出雲地方大水害
宍道湖 2.5・水位があがる
松江大橋、天神橋壊れる
1677(延宝5)年 大梶七兵衛 荒木浜松の植林
1687(貞享4)年 大梶七兵衛 差海川開削、高瀬川開通(木樋)
1689(元禄2)年 松江藩 天神川開削
十間川貫通(神戸川左岸)
大梶七兵衛死去(69歳)
1698(元禄11)年 意宇川大洪水
1712(正徳2)年 梶忠左衛門朝則 高瀬川来原岩樋竣工
1732(享保17)年 蝗の害大凶作、百姓一揆
1747(延享4)年 周藤彌兵衛 日吉村剣山切通し完成(第2期)
1751(宝暦元)年 井上恵助 高浜砂丘に植林
1752(宝暦2)年 周藤彌兵衛死去( 102歳)
1754(宝暦4)年 梶忠左衛門朝則死去(71歳)
1773(安永2)年 松江藩 斐伊川の治水工事完成
1782(天明2)年 天明の大飢饉(〜1787)
1786(天明6)年 出雲地方大凶作
松江藩 関東川普請御手伝を命ぜられる
1787(天明7)年 清原太兵衛 佐陀川開削完成
清原太兵衛死去(76歳)
・ 周藤彌兵衛の作品
交易場 修著『・小説・治水の偉人 周藤彌兵衛・』(平成6年)の書から
、彌兵衛の業績を追ってみる。
意宇川は、島根県八束郡八雲村南部山地を源とし、平原川、桑並川、東岩坂
川を併合し、松江市で斐伊川(中海)に合流する。江戸期、この意宇川は数年
おきに洪水を繰り返す暴れ川で、この洪水の減災を図るために、岩山、剣山を
くり貫き、意宇川をショ−トカットすることにより、流れを変えたのが周藤彌
兵衛である。
日吉村の大庄屋彌兵衛は、宝永3年56歳のとき、剣山切りぬき工事に着手
、くる日もくる日も槌とノミで切り開いていった。62歳のとき出家し、さらに
岩を切り続けて42年、97歳のときに日吉切通しを完成させ、 102歳で大往生。
このすざましい人生に驚嘆すると同時に畏敬の念を禁じ得ない。
この小説に、出家後の彌兵衛の心境が次のように描かれている。
「人格円満、仏の彌兵衛旦那がいよいよ本物の仏様になられた」
村人の中にはそんなことを言う者もあった。むろん彌兵衛にはそんな
思い上がりはなかった。菩薩様に習って衆生済度の願は起こしたがこの
身はまだ未熟。禅の初祖達磨大師は面壁九年、座り続けて悟りを得られ
たというが、わしのような凡夫は三十年でも足るまい。ひたすら岩を打
って、日吉村から洪水の悲しみが拭い去られた時が、わしの悟りの時だ
。
この彌兵衛の意志の強さは、文豪菊池寛が描いた『・恩讐の彼方に・』にお
ける青の洞門(豊後・耶馬渓)を開削した僧禅海に優るものである。なお、禅
海は30年堀り続け、寛延2年に完成している。他に江戸期の隧道工事として、
寛文10年に竣工した箱根用水がある。
彌兵衛については、児童文学として村尾靖子・作、高田勲・絵『・川の流れ
を変えた人 周藤彌兵衛・』(平成6年)、漫画として小室孝太郎著『・治水
の英雄伝 周藤彌兵衛・』(平成6年)が発行されている。
・ 清原太兵衛の作品
寺井敏夫著『・小説・治水の偉人 清原太兵衛・』(平成9年)の書からそ
の事業を追ってみた。
江戸中期では、宍道湖の出口は大橋川と天神川の二つしかなく、斐伊川等の
洪水のとき、宍道湖の水位は2・程あがることもあり湖周辺に水害をもたらし
ていた。
このため、清原太兵衛は宍道湖の水を、全長8・、幅36・に及ぶ佐陀川の開
削によって日本海へ注ぎ、それまで沼地であった地域を水田に変え、さらに松
江から恵曇港まで水運を開いた。農民から武士となった太兵衛は、若いときか
ら12回に渡って開削を松江藩に願い出ていたが、漸く74歳のときに許可が降り
た。この開削地には、「佐太神社」の社領地が必要となり、神池とされる「身
澄ケ池」を他に移転せざる得なく、神社は難色を示した。このとき太兵衛は、
三日三晩神社の拝殿に座して動かず願い出た。神社はこの熱意に動かされ、移
転の同意を行った。太兵衛は感謝し、神社に大手水鉢を奉納、いまでも大手水
鉢は現存している。
佐陀川開削の完成後、太兵衛は家訓として「わが家の子孫は佐太神社を厚く
崇信すべし。今日の工事の完成をみたのはひとえに佐太神社の加護によるもの
」と遺している。実際に、太兵衛は工事の指揮をとったのは74歳〜76歳の3年
間に過ぎなく、佐陀川への治水の一途な思いが叶った天明7年、76歳の生涯を
閉じた。
太兵衛については、児童文学として村尾靖子・作、高田勲・画『・川を作っ
た人 清原太兵衛・』(平成9年)、漫画として小室孝太郎著『・治水の偉人
伝 清原太兵衛・』(平成9年)の作品がある。
以上、出雲平野の治水家、大梶七兵衛、周藤彌兵衛、清原太兵衛に係わる「
出雲三兵衛」の業績について概観してきたが、三兵衛とも治水事業に私財を投
げ出したものの完成後の恩賞は僅かであったという。
三人に共通することは、「不惜身命」、「他利行の精神」、「未来志向」の
考えを貫いており、万人のために尽くしたことである。その精神は子孫にも継
承された。なお三兵衛の業績については、土木学会編『・明治以前日本土木史
(復刻版)・』(岩波書店・平成6年)のなかにも述べられている。
前述したように、「出雲三兵衛」の書を刊行したHNS研究所は、人間と自
然と科学との関係を根本から見つめ直し、人類と地球の豊かな未来を築くため
に設立され、「一村一志」運動を興し、出雲という地方から全国へ、若い人が
三兵衛のように高い志をもつことを願って、活動をされていることには共感を
覚える。
(会員:水・河川・湖沼関係文献研究会)







