(61)茂安公築堤功績碑
(62)成富茂安公合祀記念碑
(63)成富兵庫茂安公 千栗土居の生みの親
(64)千栗土居(ちりくどい)
(65)筑後川最後の渡し 下田の渡し
(66)筑後川開発の父 草野又六翁胸像
(67)筑後川浜崎地区引堤工事竣功記念碑
(68)築堤碑
(69)思案橋江川改修工事記念碑
(70)筑後川改修記念碑
碑文が語る筑後川(61)
茂安公築堤功績碑
碑銘 茂安公築堤功績碑
建立地 佐賀県三養基郡みやき町西島
建立日 昭和10年10月10日
建立者 ―――

「茂安公築堤功績碑
千栗堤防は千栗より坂口まで ?蜒3里 茂安公が 慶長9年起工より 12ヶ年の歳月を経て 成就せられしものなり 其の功績を 永久に讃せんために この碑を建設す
昭和10年10月10日 」


碑文が語る筑後川(62)
成富茂安公合祀記念碑
碑銘 成富茂安公合祀記念碑
建立地 佐賀県三養基郡みやき町白壁
(白石神社)
建立日 ―
建立者 ―

直弘公と茂安公の主従関係は、親子以上に密接であって、よく茂安公は直弘公を補佐したと言われている。茂安公は、佐賀藩の水利工事を一手に引き受けた。
筑後川の千栗土居、鳥栖市の五反三歩の堤、通瀬川のお茶屋の堤、綾部川(寒水川の上流)の一ノ井堰、田手川の水量を増やすための蛤水道、嘉瀬川の石井樋などの施工を行い、水の神様であった。
水の神様として、白石神社に祀られ、その碑が建っている。毎年10月中旬には、茂安祭が開催される。
「成富茂安公合祀記念碑」


碑文が語る筑後川(63)
成富兵庫茂安公 千栗土居の生みの親
碑銘 成富兵庫茂安公 千栗土居の生みの親
建立地 佐賀県三養基郡みやき町白壁
(千栗土居公園)
建立日 ――――――
建立者 佐賀県

「成富兵庫茂安公 千栗土居の生みの親
成富兵庫茂安公(一五六○〜一六三四)
成富兵庫茂安公は、永禄三年(一五六○年)佐嘉郡益田(現在の佐賀市鍋島町益田)に成富甲斐守信種(かいのかみのぶたね)の次男として生まれました。幼名を千代法師丸といい、元服後、新九郎信安、十右衛門尉賢種(じゅうえもんのじょうよしたね)、兵庫助茂安(ひょうごのすけ)と名乗りました。茂安公の青年時代は、江戸幕府が開かれる以前で、いわゆる戦国時代でした。九州内でも、大内・大友・竜造寺・島津などの諸勢力がしのぎを削っていました。その中で茂安公は、佐賀の竜造寺氏の麾下(きか)に入り、後に鍋島氏に仕え、多くの戦功を挙げたと言われています。
徳川家康公が天下平定すると、戦国時代の疲弊した藩政を立て直すべく、富国公益の業に従事しました。その足跡は、当町の千栗土居や多久市の松土居、嘉瀬川から佐嘉城下の多布施川に分水する施設ある大和町の石井樋などに代表されるような治水・潅漑施設が、佐賀県下で二十数ヶ所に及びます。このように、土木・治水・戦功・築城などに功績の多かった茂安公も、寛永十一年九月十八日に没し、享年七十五歳でした。
後年、人々は各地で記念碑を建て、また北茂安村(現・北茂安町)、南茂安村(現・三根町)、兵庫村(現・佐賀市兵庫町)など村名に成富兵庫茂安公の名を付けて、永久にその余徳をたたえています。この千栗土居公園もその偉業を後世に伝えるため、土居の一部(二百米)を県文化財として残し整備された公園です。
千栗土居は、十二年(年号不詳)の歳月を要し、北茂安町・三根町の十二キロに及び、また町境にはその偉業をたたえた記念碑が建設されています。」


碑文が語る筑後川(64)
千栗土居(ちりくどい)
碑銘 千栗土居
建立地 佐賀県三養基郡みやき町白壁
(千栗土居公園)
建立日 平成12年4月28日指定
建立者 佐賀県

「千栗土居
千栗土居の歴史
この土居は、「千栗土居」と呼ばれ、筑後川のたび重なる洪水から、水田や民を守ってきました。北茂安町の従前の由来ともなっている。成富兵庫茂安公の発案により十二ヶ○○○○○○○○○○○佐賀○○の洪水から守ってきた「千栗土居」ですが、筑後川の改修に伴う廃堤や昭和二十八年の大水害等により、この公園に残っている、約百八十米のみとなっています。
千栗土居全体の規模は、堤敷三十間(五十四・四米)、高さ四間(七・ニ米)、堤防の内と外には犬走り(今でいう河川敷)を設け、堤内部は「ハガネ」と呼ばれる粘土を突き固めて構築していました。また川表には、竹を、川裏には杉を植え土の流失を防いでいました。
現在残っている千栗土居の構造は、下部を砂の層その上に粘土を数段敷き固めていることや、土居の内外の犬走りを残していることなど、当時の築堤の様相を知ることができます。
また、千栗土居の杉は、建築用材として、佐嘉城や旧県庁、その他で使用されていたことも伝えられていて、北茂安町のためだけでなく、佐賀県全体の役に立っていたのです。
佐賀県史跡 千栗土居
(平成十二年四月二十八日指定)


碑文が語る筑後川(65)
筑後川最後の渡し 下田の渡し
碑銘 筑後川最後の渡し 下田の渡し
建立地 福岡県久留米市城島町
(下田大橋の北口)
建立日 ―――――――――
建立者 福岡県

「筑後川の最後の渡し 下田の渡し
筑後川には、日田から河口までに62ヶ所の渡しがあったと伝えられている。筑後川最後の渡しとして働き続けてきた「下田の渡し」も平成6年3月(1994年)に廃止された。
「下田の渡し」の運行が始まったのは、元禄3年(1689年)と伝えられている。渡し船の運営は、対岸の下田・芦塚地区と浜地区が共同行なう、手漕ぎ船による賃取りの渡しであった。昭和の初め頃、賃取りの渡しから福岡県営の渡船へと変わり、それと同時に手漕ぎ船から発動機船になった。
平成6年3月下田大橋の完成により、地元住民の貴重な足としての役割を果たしてきた「下田の渡し」は、ここに長い歴史の幕を閉じた。
福岡県 」


碑文が語る筑後川(66)
筑後川開発の父 草野又六翁胸像
碑銘 筑後川開発の父 草野又六翁胸像
建立地 福岡県久留米市草野町発心公園東側
建立日 昭和44年10月
建立者 故草野又六翁顕彰稗建設委員会

「筑後川開発の父 草野又六翁胸像
翁ハ現久留米市大橋町蜷川鹿毛宗五郎ノ次男ニ生マレ、後草野町草野五右衛門ノ養子トナル。資性剛毅果断、至純至高、才略人ニ傑ル。特に治水開墾ノ事ニ長ズ。故ヲ以テ士分に抜擢セラレル。
偶々宝永七年<一七一○>十月、河北ノ鏡村庄屋高山六右衛門等、床島堰渠ヲ構築シ、導水路ヲ造ランコトヲ訴願ス。時ノ藩主有馬梅巌公、英明ニシテ専ラ治道ニ勤ム。公、之ノ企ヲ荘トシ、銀子貸与シ、官林ノ伐採ヲ許可シ、更ニ翁ヲシテ普請総裁判タラシム。因ッテ翁ハ普請奉行野村宗之丞ヲ輔ケ、各庄屋ト協力シ、正徳二年<一七一二>正月二十一日工事ニ着手セリ。
抑々床島附近ハ川幅広ク、水量多ク、而モ名二負ウ急流奔湍ナリ。巨石大木ヲ沈メテ堰ヲ築カントスルモ、恰モ木ノ葉ノ如ク押シ流サル。其ノ困難言語ニ絶ス。然レドモ翁聊モ屈セズ、克ク百難二耐へ、昼夜兼行、三千五百人ノ人夫ヲ指揮激励シ、遂二堰止工事ニ成功セリ。次デ佐田堰・江戸前水門ノ工事ヲ経テ未曾有ノ難工事ヲ茲二完工セリ。ソノ間僅カニ八十余日ナリ。
爾来、河北ノ地、荒蕪ヲ抜キ水田トナシ、今日三千余町歩ノ美田ヲ耕ス。又?々旱天二遭フト雖、幸二凶作ヲ免ルルヲ得。之レ偏二此ノ堰アルヲ以テナリ。
大正十四年、時人ソノ業績ヲ讃ヘ、五人ノ庄屋ト共ニ大堰神社ヲ祀り、春秋二季大祭ヲ行ヒ、報恩ノ誠ヲ捧ゲルコトトセリ。又大正十五年、大正天皇ハ夫ノ功ヲ嘉シ、従五位ヲ追贈セラル。誼ナリト言フベシ。
惟フニ産業発展ノ基ハ利水ニアリ。而シテ筑後川開発ハ現代ノ課題ニシテ、一日モ忽ニスべカラズ。今ニシテ翁ノ偉業愈々大ナルヲ覚ユ。茲ニ同志ト相図リ、翁ノ像ヲ建立シ、ソノ偉功ヲ偲ブト共ニ永ク後世ニ伝ヘントスルモノナリ。
昭和四十四年十月
故草野又六翁顕彰碑建設委員会 」


碑文が語る筑後川(67)
筑後川浜崎地区引堤工事竣功記念碑
碑銘 筑後川浜崎地区引堤工事竣功記念碑
建立地 福岡県久留米市田主丸町浜崎
建立日 昭56年
建立者 田主丸町

この筑後川橋の左岸側の土手を上流日田の方向へ、すこし上った所に、筑後川浜崎地区引堤工事竣功記念碑が建っている。その一角には、水神様の祠と仏様立像と一緒にその記念碑も佇んでいた。裏面にはその当時の田主丸町長らの名が刻んである。ようやく浜崎地区の引堤工事竣功したことに、安堵されたことであろう。その気持ちが伝わってくるようだ。
「筑後川浜崎地区引堤工事竣功記念碑
昭和56年 」


碑文が語る筑後川(68)
築堤碑
碑銘 築堤碑
建立地 福岡県久留米市長門石町本村
(八幡宮境内)
建立日 明治44年2月
建立者 長門石村

現在、長門石周囲には、明治期の堤防がところどころに残っている。その後の本格的な河川改修によって、その役割が減少したため、今は大方道路と利用されている。しかし、いずれは消滅の運命にあるという。
明治期、長門石住民の共同労働であった築堤工事の記念碑が八幡宮の境内地に建っていた。漢文であるが、長門石町誌刊行委員会編・発行『長門石町誌』(平成7年)に、次のように意訳が掲載されていた。
「築堤碑
長門石村はその一方は筑後川にのぞみ、三方には古川(三百五十年前の筑後川の本流)がめぐり、これをはさんで肥前と相対している。田畑総面積は約120町、戸数は130戸余りで他の村落とは全く隔離している。ここの土壌は砂状質を呈し、まさに1弧島村というべき村である。この地区の土地は低く、長雨が続くと川の水がここに溢れて田畑を埋没し、或いは家屋を流失し、秋の収穫は年々減少して村民の生計は苦難に陥るばかりであった。こういう不安な状態で長い年月を送っていたが、なかには村を離れ去る住民もあった。
村の窮状を聞いて知った官庁は吏員を派遣して、地形を調査・研究させ、恒久的な対策を樹てることに意を注ぎ、ついに村の周囲に堤防を築くことを決定した。
村民はこれを聞いて悦び勇み、またとない好い機会であると皆の気持ちが大いに動いたのであった。さっそく全村協議して、この工事に人夫として出ることを決め、老幼婦女も力に応じて仕事に服し、労働を嫌がるような者はいなかった。
また堤防線にある所の私有地が4500坪あったが、これをすべて官に納入して資金の手助けとしたのである。
工事は明治39年5月5日に着工され、翌年の8月28日に完成した。このうち新規築造の堤防と旧来のものを増築したものを合計すれば、その延長は1940間に達し、費やした官金は16800円に上ったと言われる。
その後今日まで4年になるが、洪水のため堤防がこわれて田畑に被害があるようなことも、また村民がひどい苦難に陥ることも無くなり、十分に物足りた暮らしができて、人心は正しい方向に向かい、租税や法令を尊重するようになった。同時にまた、農業の余暇に若者たちは学問を修め、芸事を習い、村内に争いごとやもつれがすっかり絶えてしまった。こうして全村に美風が満ち溢れ、注目すべき姿に変わったのである。これらはまったく共同一致して築堤工事に従事したことに由来するもので、この事業は永久に忘れ去るべきことではない。このため碑を建てて築堤事業の梗概を記し、これを後世に伝えるものである。
明治四十四年二月
後藤 謙撰
中村幸吉書 」


碑文が語る筑後川(69)
思案橋江川改修工事記念碑
碑銘 思案橋江川改修工事記念碑
建立地 福岡県久留米市宮の陣町思案橋
建立日 大正3年3月
建立者 ――――――――

明治期、久留米宮の陣、小郡味坂地区の人々は、洪水に悩まされてきた。思案橋江川の改修は大正3年に竣功し記念碑が建っている。その碑文を読めば、改修の足跡の苦労がわかってくる。
「思案橋江川改修工事記念碑
思案橋江川ハ筑後川支流ニシテ、宮ノ陣・味坂ノ間ヲ流レ、流域九百六十余町歩、其河身曲折多ク、洪水毎ニ氾濫シテ被害酷シ。
両村ノ民深ク之ヲ憂イ、明治二十年之ガ改修ヲ企テントセシガ工費ノ負担ニ困リ、僅カニ姑息ノ修理ヲナセルニ過ギザレバ、水害依然トシテ年々臻ラザルナク、殊ニ同三十八年ハ殆ンド収穫皆無ノ惨害ヲ受ケタリ。
是ニ於テカ益々改修ノ急ヲ感ジ、両村相謀リ、郡長左正武氏ニ請願スルトコロアリ。郡長之ヲ了トシ、郡会ノ協賛ヲ経テ同四十二年郡営事業ニ編入シ、実測ヲ遂ゲ、設計ヲ定メ、同四十四年三月起工シ、大正三年三月竣功セリ。工事ノ箇所、延長千六百四十五間、ソノ工事金壱万五千六百九十三円ニシテ、ソノ七千六十二円ハ群費ノ支出ニカカリ、ソノ八千六百三十一円ハ実ニ両村ノ寄付金二属ス。
今ヤ河身ハ幅員ヲ増シ、其曲折ヲ減ジ、洪水ニ至ルモ殆ンド停滞ノ憂イナク、年来ノ惨害ココニ初メテ一掃セラレ、両村ノ民永ク其ノ慶ニ頼ラントス。即チ工事ノ梗概ヲ刻シテ不朽ニ伝フト云爾。
大正三年三月
野田 実撰
藤村槙堂 」


碑文が語る筑後川(70)
筑後川改修記念碑
碑銘 筑後川改修記念碑
建立地 福岡県久留米市東櫛原
(筑後川沿い百年公園内)
建立日 明治36年12月
建立者 ―――――――

百年公園に建つ筑後川改修記念碑には、それらことが漢文で刻まれている。その意訳が、久留米碑誌刊行委員会編・発行『久留米碑誌』(昭和48年)に、次のように掲載されている。
「筑後川改修記念碑
筑後川は、源を熊本県阿蘇郡○師嶽に発し、大分県日田で玖珠川に合流したのち筑前・筑後をつらぬいて流れ、筑後三潴郡久間田村で海にそそいでいる。その流れは延長三十五里、灌漑面積は三万一千町歩であり、明治三十六年五月に改修工事が完了した。その経費は弐百六拾七万円余で、治水工事として大事業であった。
一体に水の恩恵は広大なもので、万物はこれによってはぐくみ育てられる。しかし、一度大雨がながく降り続けば、河川は増水して荒れ狂い、堤防を破壊して全ての物を流失させ、惨虐な結果を招くのである。
筑後川の決壊ついて見れば、中古以前の事はさておき、文政八年<一八二五>から慶応二年<一八六六>の間に十二回起きている。最近もっとも激しいのは明治二十二年であった。沿岸の地である久留米・佐賀二市を始め、日田・朝倉・浮羽・三井・三潴・三養基・佐嘉・神埼の八郡はまさに一大湖となり、被害者の救援はひどく困難をきわめた。このような事情から筑後川改修は必須のものとなったのである。
朝廷ではすでに早くから国内の大河川、利根木曽等の改修を決定し、いずれも工事を始めていた。この筑後川では十六年に測量を開始し、十七年には福岡・佐賀・熊本・大分四県にわたる河川土木を直轄事業とし、事務所を久留米におき、技師を派遣して監督させた。ついで十九年に土木監督署が設置され、翌年四月から工事が着手された。明けて二十一年五月には内務大臣山県有朋伯爵が工事巡視にやってきた。その後二十七年、署が熊本に移転し、二十八年には事業拡張策が建てられ、三十一年、さらに福岡に署を移し、ついに工事の竣工を見たのである。この間、内務大臣は引き続きこの工事に尽力し、土木局長に志村捨三も技師の指揮と関係者に対する奨励とにつとめ、工事の成功に大きな力となったのである。
技師の言によれば、水の流勢というものは、山が迫ってきている所では狭く、平坦な野では広く流れるものである。広い流れは荒れ易い。水門や堰によって流れをゆるやかにしたりまたは激しくするのは水勢を平均するためである。袋野・長野・山田・床島あるいは千栗等の堰が昔から構築されているが、このたびの新規工事は迂回した流れを直流とし、四箇所の放水路と逆水防止のための六箇の水門を設け、旧来からあった荒籠を取り除いて新たに護岸工事を行い、川幅を広めて氾濫に備える等の点にあった。
三十四年に再び長雨が降ったとき、水位は昔に比較して最高であったが、被害はまったく僅かであった。これによって改修の効果を知ることができよう。その上、昔は各藩が対立し、隣藩に水が流れ込んで自藩は損害を免れることを考えていた。いまはそのような悪弊はなく、その利を知った福岡・佐賀二県人は心をあわせて協力し、種々の意見を献策し、金銭や物資を投げ出して改修費の半額を負担したのである。このため、ほかの河川よりも早く工事が完了した。思うに、これも時勢のお蔭である。昔の優れた人は水を防ぐことを敵を防ぐことになぞらえたが、治水工事は人の和なくしては不可能でもある。人の和こそ国家の基礎でもある。今日見られる協和の精神は、これはすべて天皇の政治によって教化されたものであり、われらは皇徳を決して忘れてはならない。
明治三十六年歳在癸卯冬十二月
勅選議員錦鶏間?候正四位勲三等 巌谷 修 書
浪華 南岳 藤沢 恒 撰 」


(H22.9.23 古賀河川図書館)







